ここ数日前から突如として、朝の習慣的な実践として行っていた文章の筆写が音読に変わり始めた。カントの“Critique of Pure Reason (1781)”を無心で筆写している時に、その古風な英語を手書きで写すよりも、そこで展開される言葉を自分の口から外に出してみたいという欲求のようなものが生まれた。
これは極めて自然な欲求であり、抵抗できないような欲求であった。そこから私は、カントの哲学書を手で書き写すのではなく、毎朝少しずつ音読をするようになった。
カントの言葉を手書きで書き写すことによって、それらを自分の肉体に刻むのではなく、カントの言葉を声に出してみることによって、外側に発する形で自分の内側に刻み込みたいというような無意識的な力が働いているように思えた。
音読によって、手書きで書き写すよりも毎朝こなすことのできる分量が増えたため、当初の予定よりも早く、その書籍を読み通すことができそうだ。その書籍を音読し終えることができたら、フィヒテの“The Science of Knowledge (1982)”、シェリングの“System of Transcendental Idealism (1978)”、ハイデガーの “Being and Time (2010)”、ベルグソンの “Time and Free Will (1910)”をとりあえず順番に音読していきたいと思う。
突如として筆写から音読の実践に変わったのは、もしかすると、日々の生活が黙読と文章を書くことに当てられていることによるのかもしれない。音読という、自分の五感を駆使しながら文章を読むという実践を求めていた自分がいたのだろう。
早朝の習慣的な実践の一つは、哲学書の音読が核となるだろう。日々の生活の大部分が「科学的探究」と呼ばれるもので占められれば占められるほど、「哲学的探究」と呼ばれるものを求めるような自分がいるのは紛れも無い事実である。
この世界において、いつからか分断してしまった科学的探究と哲学的探究の双方を、どうにか並行して推し進めたいという自分の叫びが聞こえてくるかのようである。そのようなことを考えていると、ギリシアの哲学者ヘラクレイトスが残した「自らと対立するものは、自らと調和をなしている」という言葉を思い出した。
科学と哲学は本来、対立するものでは決してないのだが、現代社会においてそれがあたかも分断したものとして扱われているがゆえに、私はそれら二つを同時に探究することを通じて自分の内側に調和をもたらしたいのかもしれない。
また、ひょっとすると、私自身が実は、科学的探究や哲学的探究と相容れない対立するような存在であり、そうであるがゆえに、それら二つを求め、より調和的な自己を確立しようとしているのかもしれないと思う。
前者も後者も、私にとっては非常に納得のいくことであった。書斎の窓から、今日が土曜日であることを訴えるような夕日が顔を覗かせているのが見えた。
夕日の輝きが空に滲み出す様子は、広く深く、太く長く、科学的探究と哲学的探究の双方を継続していきたいという私の思いを象徴しているように思えた。2017/6/3