昼食後、仮眠を取り終えた私は、午後からの仕事に着手する前に、埴谷雄高氏の『死霊』を読んだ。午後からの仕事を始める前についついその作品に手が伸びてしまった、と言った方が正確だろう。
本日をもって、全九章にわたる作品のうちの第一章を読み終えた。二日に一章のペースで読み進めることができれば、夏の休暇前に全てを読み終えることができそうだ。
辻邦生先生の小説にも形而上学的な要素が散りばめられているが、埴谷氏の作品はそれが全面的に前に押し出されていることに両者の作品の違いがあるように思える。一章を読み終えた直後、やはりこの小説はある意味危険なものを持っていることが改めて明らかになったが、もはやこの作品を読み通すことしか道がない。そのようなことを思った。 『死霊』を読み終え、それがもともと置かれていたソファの上に再度置き直した私は、「成人発達とキャリアディベロップメント」の論文の執筆に取り掛かった。この論文の執筆も順調に進み、ふと第二弾の書籍『成人発達理論による能力の成長』について思いを巡らせていた。
昨日、この作品全体に関する主題を書き留めていたが、各章における主題のようなものを自分で確認しておきたいと思った。端的に述べると、序章の主題は「意識の発達論的還元主義」という言葉に集約されるだろう。
現在、日本においては、ウィルバー、キーガン、クック=グロイター、トーバートらの発達理論が広まりつつある。厳密には、ウィルバーの発達理論は随分と昔から日本で紹介されている。
また、ウィルバーが他の発達論者と異なるのは、キーガン、クック=グロイター、トーバートは生粋の学者であり、自身の研究から独自の発達理論を構築して行ったのに対し、ウィルバーは彼らの発達理論を統合するようなメタ理論を提唱したことにある。
実際に、ウィルバーは単一の発達領域について理論を展開したのではなく、単一の領域を扱う無数の発達理論を包摂するような理論モデルを提唱するという貢献を果たした。
しかし、ウィルバーにおいても、キーガン、クック=グロイター、トーバートらと同様に、「意識の発達理論」と括られるような発達領域を強調する傾向にある。この発達領域は、私たちが社会生活を営む上で確かに重要なものである。
それは世界を認識する枠組みに関わる発達領域であり、私たちが自己や他者をどのように認識するか、世界をどのように認識するかに関する発達領域を扱うものである。この発達領域の重要性を否定する気は毛頭なく、実際にそれは重要な役割を司っているがゆえに、現在の日本で徐々に注目を集めているのだと思う。
最も重要な点は、この領域の能力は、自己を規定する物語への認識、組織や社会を規定する物語への認識を司るという性質を持っているということだろう。言い換えると、それは、私たち自身の発想の枠組みの盲点や限界に気付きを与えるものであり、私たちが立脚する意味構築システムそのものへの疑いの眼差しをもたらすものなのだ。
さらには、この能力は、私たちが置かれている組織や社会を呪縛する思想的枠組みやルールに対して気付きを与えるものだと言える。自らが作り出す物語の限界や盲点に気付き、組織や社会が生み出す物語の限界や盲点に気付きを与えることができるというのは、一人の成熟した市民としてこの世界に関与する際に重要になる。
ウィルバー、キーガン、クック=グロイター、トーバートらが提唱する「意識の発達理論」と呼ばれるモデルで指摘されるのは、そうした特徴を持つ能力領域なのだ。しかし、それらの理論家が提唱する能力は、私たちが持つ無数の能力の一部であり、それはある種、「自己と世界を眺める」ことを司るものなのだ。
言い換えると、それは自己を対象化し、世界を対象化するための能力である。本書の序章でも指摘したように、私たちは、日々の生活の中で単に自己と世界を眺めているだけではなく、自己を通じた世界への具体的な関与を行っている。
まさに、そした具体的な関与を可能にするのが、カート・フィッシャーが指摘する個別具体的な能力なのである。すなわち、私たちは単に自己と世界を眺めて日常を送っているのではなく、それよりもむしろ、常に個別具体的なコンテクストの中で個別具体的な能力を発揮しながら日常を送っているのだ。
ここで問題となるのがまさに、ウィルバー、キーガン、クック=グロイター、トーバートらが提唱する意識の発達段階が向上することが直ちに個別具体的な能力の成長に直結するとみなす発想である。ここで繰り返し述べる必要はないのかもしれないが、彼らが提唱した発達領域は無数の能力領域の中の一つに過ぎず、その能力領域の発達を持ってして、個別具体的な能力の発達を説明することはできない。
当然ながら、それらの領域は独立していながらも互いに影響を与え合っているのは事実だが、意識の発達段階と呼ばれるものが、他のどのような個別具体的な能力の発達と相関関係を持っているのかは明らかではなく、また、それは各人によって異なる。
なぜなら、一人一人の知性は、異なる生態系を持っているからである。意識の発達段階と呼ばれる生物種と親和的な関係を持つ生物種としての能力は各人様々であり、敵対的な関係を持つ生物種としての能力も各人様々だ。
ゆえに、私たちがある特定のコンテクストの中で発揮する個別具体的な能力と意識の発達と呼ばれる能力とを混同してはならないのだ。そうであるにも関わらず、意識の発達段階が高度になれば、ありとあらゆる能力が高まるような幻想を持っている人が多いように思う。
その証拠に、「意識の発達によって業務能力が高まる」「意識の発達によってより幸福になれる」などの言説を目にすることがよくある。こうした発想を私は「意識の発達論的還元主義」と呼ぶ。
繰り返しになるが、ウィルバー、キーガン、クック=グロイター、トーバートらが提唱しているのは、私たちが持つ無数の能力領域の一つに過ぎず、それは他の能力領域を横断するような万能なものではないのだ。それにもかかわらず、意識の発達段階の高度化と他の能力の発達を安易に結び付けようとするような発想が見られるのだ。
まさに、私たちが特定のコンテクストの中で発揮する無数の個別具体的な能力を、「意識の発達」というたった一つの領域で説明しようとする思考特性が「還元主義」と呼ばれる所以である。序章における主題は、こうした「意識の発達論的還元主義」の存在に気付くことを促し、それに陥ってしまうことに対する警鐘を鳴らすことだったように思う。2017/5/31