五時半に起床した私は、朝の習慣的な実践を終え、六時から自分の仕事に取り掛かり始めた。するとすぐに、とりとめもないことを考え始めている自分が現れた。
それは、自己の内側にあるものを外側に表現する際の形式に関するものであった。自分の内側の思考や感覚を外側に表現する際には、それが自然言語にせよ音楽言語にせよ、それらを形に変えていく媒介形式のようなものが必要になる。
先ほど考えていたのは、そうしたものよりもより純粋に「型」と呼ばれる形式について考えていた。一昨日、就寝前に歯を磨きながら、「自分はピアノソナタを作曲することはできないかもしれない」という否定的な考えが脳裏をよぎった。
ちょうどその日の夜に、ベートーヴェンが書き残したピアノソナタの楽譜をあれこれと眺めており、その複雑性に圧倒されるようなものがあった。そして改めて、そもそもソナタ形式というものが、厳格に定められた一つの表現形式であることを強く自覚させられたのである。
それはさながら学術論文の執筆で要求される表現形式のように思えた。学術論文の執筆において、序章から結論部分へと論文の物語が進行していくのと同様に、ピアノソナタも序奏から終結部へと向かって音の物語が進行していく。
このような型に沿って作曲をすることは、今の私にとって不可能であるように思えた。そのような日が来ることを想像できない自分がいたのである。
しかし、よくよく考えてみると、自分の内側にある思考や感覚を仮に作曲という形で表現する際に、そこには必ず導入的な何かから始まり、それが展開し、終結部へ向かうという物語様式がすでにそこにあることに気づかされた。
つまり、私の内側の現象はそれ自体がある種の形式を持つ生命のような存在に思われたのだ。それが本質的に形式を備えたものであるがゆえに、そうしたものを外側に表現する際には、必ず形式が必要になると考えを改めた。
そこから、大掛かりなピアノソナタでないにせよ、ソナタ形式に則った形でピアノ曲を作っていくことは可能かもしれないという小さな希望が見えてきた。学術論文を初めて執筆した際、それを書く前の私は果たして自分に論文など書けるのだろうかと懐疑心に苛まれていた。
しかし、論文の形式に沿う形で少しずつ文章を書いていけば、最終的に一つの論文ができ上がるのだ。それと同じように、まずはソナタ形式を常に意識しながら曲を作っていきたいと思う。 ここでふと、ベートーヴェンの作曲家としての発想の転換について思いを馳せた。ベートーヴェンが活動の中期において、ソナタという形式をそこに楽想を流し込むための枠組みとみなすのではなく、自らの楽想を完全なまでに表現するための道しるべとみなしたことが思い出された。
私にとって、作曲に関してその段階に至るのは随分と先のことになるだろうが、学術論文を執筆する際には大いに参考になる発想だ。これまではややもすると、論文の形式に自らの表現内容が縛られているような感覚があった。
だが、論文という形式を自分の表現内容を完全に具現化させるための必須の水先案内人にすることが可能なのだと思い始めた。学術論文の執筆で要求される種々の形式を、外側に表現されることを待っている研究テーマを完全なまでに表現するための里程標とみなしたい。
表現形式の意義と役割、そしてそれとの向き合い方に関しては今後も考えを深めていく必要があるだろう。2017/5/31