少しばかり、あの七日間について振り返っていた。第二弾の書籍『成人発達理論による能力の成長』の原稿は、昨年のクリスマス前の七日間を使って書き上げた。
毎日およそ2万字ほどの字数を目安に執筆を続け、七日かかって本書の原稿が完成した。前作『なぜ部下とうまくいかないのか』は、時期を同じくして、一昨年のクリスマス前の月曜日から金曜日にかけて原稿を書き上げた。
原稿を書き「上げた」と記述したが、実際にはすでに頭の中にある何かを上から下ろしたように文章を書き進めていた。自分の頭の中に形としてある全体的なものに対して、単に言葉を与えるだけでいいような、そのような感覚で生み出されたのが前作であり、また今回の作品でもあった。
第二弾の書籍に関して、あの七日間の期間において、私は何を考えていたのだろうか。言い換えれば、あの時の私は何を訴えるためにこの書籍を執筆したのだろうか。そのようなことを少しばかり考えていた。
振り返ってみると、各章ごとに伝えたいテーマのようなものがあり、それらを統括するような一つの主題があるようだ。その主題について考えていたところ、一つには「成長を希求しないことの重要性」あるいは「思慮を伴った実践と支援の重要性」を伝えたかったように思う。
とにかく、成長至上主義的な風潮に対抗するかのごとく、成長・発達することの本質的な意味を問うような問題意識を共有したかったのだと思う。世の中の至る所で、成長の重要性を訴えるような書籍や実践が見られる。
果たして、私たちは本当に成長など必要なのだろうか?そのような問いこそが、まさに本書の根幹に横たわっている。
本書のタイトル、そして内容の表面的な装いは、さらなる自他成長を促すことを主張しているように思うかもしれない。しかし、本書の中で節々に述べているように、自己や他者がさらに成長していくことの意味や目的について冷静に考えて欲しいという思いが常にあった。
現代社会で展開されている成長に関する議論や実践は、どれも思慮が欠落しているように私には思える。思慮の欠落を指摘し、思慮の伴った実践を提唱することが本書の主題だったに違いない。
私たちは、成長の本質というものを見過ごしがちである。私たちは成長することによって、これまで抱えていた課題を解決することができるのは確かである。
ある段階から次の段階に到達して初めて、既存の段階の問題が解決されるというのは、まさに発達の肝だ。だが、発達の肝はそれだけではない。
もっと重要な肝がある。それは、私たちは成長することによって、その瞬間の自分には到底解決できないようなさらに大きな課題が突きつけられるということだ。
「私はより大きな課題を求めているため、成長に伴って新たな課題が突きつけられることは問題ではない」という主張は、相当に馬鹿げているし、成長の要諦を掴み損ねている。私たちが真に成長を遂げた時にやってくる新たな課題は、そのような呑気な主張を漏らす口がふさがってしまうぐらいの実存的なものなのだ。
それは解決の糸口が一切見えないものであり、それが課題であることすら認識できないような、まるで課題の中に溺れてしまうような感覚を伴うものである。解決の糸口が見えず、課題そのものが自己になるということこそが、成長に伴う新たな課題の本質である。
そして、これは組織においても社会においても全く同じである。組織が成長すればするほど、社会が成長すればするほどに、組織や社会は解決がより困難な課題に直面するのである。
個人の成長も集合の成長も、その本質は同じなのだ。絶えず絶えず、全く手には負えないような課題が次から次へと訪れることが、成長することの持つ本質的な意味である。
それは、天国へ向かうような道では決してなく、地獄の中を歩く道である。しかし、それでも歩かなければならないのが、私たち個人であり、私たちを取り巻く組織や社会の宿命なのだと思う。
常に私たちは、直面する課題に劣後している。その劣後の溝は時代の変遷と共に拡大する一方であるがゆえに、私たちに求められるのは思慮の伴った実践だと思うのだ。成長それ自体を求めるために成長実践を行うのではなく、地獄の中を歩くために思慮の伴った成長実践が不可欠なのだ。
他の個人と共に、組織や社会と共に前に進むためには、成長の本質を掴んだ思慮の伴った実践が絶対に必要なのだ。私はそのような思いで、あの七日間を過ごしていたのだと思う。2017/5/30