昨日、昼食を食べながら、父が会社員でありながらも芸術活動に打ち込んでいた時代のことを思い出していた。父のこれまでの趣味の変遷を眺めてみると、それはインドアとアウトドアの双方において多岐にわたっていることに気づく。
現在は、写真と短歌を軸とした活動をしているようだ。東京から山口県に移ってからは、長い間釣りに熱中していた。
その熱中振りは私も唖然としてしまうほどであり、何に驚いていたかというと、手先の器用さを利用して自らルアーを作ったり、釣りに用いる小道具を作っていたことだ。そして、私が最も敬意を持っていたのは、父が釣りに関する豊富な知識を極めて高度な理論として体系化していることだった。
小さい頃、私もよく父と様々な場所に釣りに出かけ、そこでの体験とその記憶は今ではかけがえのないものになっている。しかし一方で、釣り場に到着した時に、小さいながらもいつも感じていたのは、父と私の二人は周りから浮いているということであった。
地元の釣り人とは異なり、私たちの格好は垢抜けており、持っている道具の全てが最新鋭のものであり、その中に最新鋭のものと変わらないぐらいの見た目と質を持った父の創作道具が混じっていた。また、父は山口弁を話すことができないため、釣り場での父と私の会話は標準語で行われていた。
見かけとしても、言葉としても、私たち二人は周囲から浮いた存在であった。父はそのことについて一切気にしていなかったのかもしれないが、特に小学校時代の私はそれについて気にしており、自分が外国人であるかのような感覚、あるいは少なくとも、その環境には見られない異質な存在であるという認識が強くあった。
しかし考えようによっては、自分の中で異質性と向き合い、異質性を育むきっかけになったのは、まさに幼少期において父と頻繁に行動を共にしていたことにあるだろう。今ではもはや微笑ましいように思うが、未だに父を実家で見ると、山口県の片田舎には見られないような異質な存在だと強く思う。 また、父は最新のテクノロジーにも関心があるようで、部屋には様々な機器が置かれており、父の車には、FBIの捜査車両のようなテクノロジーが搭載されているように私には見える。こうしたテクノロジーへの関心が相まって、私にはない絵画的才能を持つ父は、世界に向けてLINEスタンプを今後創作していくことを計画しているようだ。
正直なところ、父にその話を聞くまでは、LINEスタンプの存在を知らなかったし、またそのようなものを個人が作れることも知らなかった。さらには、父は再び小説を書く計画も練っているようだ。
父のそうした多趣味な点を私は受け継いでいるのかもしれない、と昼食をとりながらふと思った。 しばらく私は、午前中に読んだ論文と専門書の内容について振り返っていた。しかし、再び父との思い出が浮かび上がってきた。
それは私がまだ東京にいた頃の記憶であった。当時、父はエアブラシを用いて絵画を描くことに凝っていた。
平日は夜遅くに仕事から帰ってくることが多かったが、早く帰って来れる日はおそらく平日の夜に、そして時間の取れる週末は常に、父は自室で絵を描いていた。エアブラシの機器が動く音やエアブラシのスプレーの匂いが、今でも鮮明に蘇ってくる。
基本的に、幼少の頃から私も自分の関心事項に没頭することが多く、父が何をしているのかを気にかけることはあまりなかった。それでも、作業をしている父の横に近寄り、父が描く絵をじっと眺めていたことが何度もあったのを覚えている。
父の絵画的な才能によるところも大きいと思うが、会社員であったにもかかわらず、エアブラシを用いた技術はもはや素人のそれではなかった。実際に、父の絵が絵本になったり、銀座や上野の画廊に絵が飾られていたりするのを見ると、その腕前は卓越したものだったと思う。
これは私が一昨年日本に戻ってきた時に初めて知ったのであるが、父の実家を訪れ、祖母から当時の資料を見せてもらった時、父が絵画を描くきっかけになったのは私の言葉だったようなのだ。
「お父さん、僕に絵本を描いてよ」という言葉が大きなきっかけとなって父が絵画を描き始めたという事実が、今から20数年以上も前の雑誌のインタビュー記事の中に載っていた。自分がそのようなことを述べていたことを私は覚えていなかった。
いずれにせよ、私の何気ない一言が、父の内側の表現欲求と合致し、それが父の内発的な動機に火をつけることになったのかもしれない。他者の期待に飲まれるのではなく、他者の期待と自らの表現欲求が合致した瞬間に、人は途轍もない内発動機に従って活動に従事するのだということを父から学ばされたように思う。
そのようなことを思いながら、私は午後からの仕事に向かった。休日の晴れ渡るフローニンゲンの空を眺めながら、父が今後作る芸術作品と小説を今からとても楽しみにしている自分がそこにいた。2017/5/29