昨夜は就寝前に、過去の記憶をあれこれと振り返っていた。特に、幼少時代の記憶である。
記憶というのは、どこまで遡れるものなのか非常に興味がある。私のこれまでの一生を記憶の範囲とすると、やはり2歳か3歳までの記憶しか思い出すことができなかった。
昨夜は、まるでとても深い森の奥に入っていくように、辿れるだけ昔の記憶に分け入っていた。たいていの記憶は、これまでも何かのきっかけで思い出したことのあるものであったが、これまで一度も思い出したことのない記憶も湧き上がってきた。
記憶というのは、無意識のどこかに必ず格納されていることを知る。過去の記憶を辿っていると、ある時から、自分の意識がどの時期に生まれたのかに関心があった。
どうやら、自己意識の芽生えと記憶で遡れる範囲が一致しているようなのだ。中には、自己意識が芽生える前の記憶にまで遡れる人がいるという話を聞くが、私の場合、そのようなことは今のところ無理である。
自己意識が芽生えたのと同じ時期の記憶までしか私は遡ることができない。また、記憶違いという言葉が象徴するように、私の記憶は時代が錯誤していたり、違う時間と空間の記憶が合成されていたりすることにも気づいた。
しばらくの間、私はベッドの上で記憶を遡ることをやめなかった。このように記憶を振り返っていると、人間の意識は時間と空間をやすやすと超越することに気づかされる。これが想像力の根源なのかもしれない。 ちょうど夢の世界に入るか入らないかのタイミングで、夢と現実の境目について考えていた。私たちが「現実」と呼ぶものは、私たちが想像力を意図的に働かせることのできる範囲のことを指し、「夢」とは、私たちが想像力そのものの中に入り込んでしまうことなのではないか、ということを思った。
そのように考えると、私たちの想像力というのは凄まじい力を持っていることがわかる。もしかすると、想像力は私たちに仕える存在というよりも、私たちが想像力に仕える存在なのかもしれない。
それを証明するのは、想像力そのものの中である夢の世界において、私たちは夢の世界で進行することに寄り添っていくことしかできないということだ。意識を深める実践を積むと、夢の世界においても自己意識を保てる状態になるという。
しかし、そうした状態においてですらも、夢で起こる現象に私たちは身を委ねることになる。夢の世界で次々に現れる現象は、私たちの意識でどうこうなるものではないのだ。
そうした現象は、私たちの意識を超えて動いていく生命力のようなものを持っている。 昨夜も、想像力そのものの中である夢の世界に入り込んでいた。残念ながら、今日はその内容については覚えていない。
だが、全く夢すらも見ない状態において、私たちの想像力はどのように働いているのだろうか。想像力は、そうした夢すらも見ない深い夢の世界すらも生み出すことができるのだろうか。
人間の想像力というのは、つくづく興味深いものだと思う。2017/5/14