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1064. ある企画の始まり


一人の人間が生きていく過程というのは、一つの主題を形作っていくことなのかもしれない。一つの主題を発見するというよりも、主題そのものを日々の行為を通じて形作っていくのだ。

そのようなことを思うとき、私は、人生におけるちょっとした企画を立てた。その中身については、ここで書く必要はない。

なぜなら、それはこれまでやってきたことの中にすでに現れているし、これからもやり続けることの中に現れていくと思うからである。 再度改めて、論文と日記について考えを巡らせていた。私にとって、論文と日記という二つの表現形式を共に日々の生活の中に溶け込ませることによって、それらは私の精神を安定させ、精神を研ぎ澄ませていく働きがあると実感している。

つまり、論文と日記を執筆するということは、私にとって等しい価値を持っている。これまでは、ややもすると、論文を執筆することの方が、価値あることのように思えていた。

また、自分の言葉で自分の文書を書くよりも、他者が書いた書籍や論文を読むことを優先させてしまうような自分がいた。だが、そうした態度は改めなければならない。

一生涯にわたって先人から学びを得ていくことは必然だが、それ以上に、自分という一人の人間が持つ、たった一つの主題を形作っていくことの方が遥かに大切なのではないだろうか。

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』、埴谷雄高氏の『死霊』、ケン・ウィルバーの『進化の構造』が生み出されたように、一人の人間が長い時間をかけて産み出した作品には、その人固有の主題が刻み込まれている。

この夏は、それらの作品のように、一人の人間が長大な時間をかけて残した書物や論文をゆっくりと読み進めたいと思う。ゆったりとした時間のあるときにしか成しえない読み方を試みたい。

そして、それ以上に、私自身の日々の行為を通じて、自分なりの主題を形作っていくということを何よりも優先させて進めていきたいと強く思う。 やはり、一人の人間の日々の営みが、一つの大きな物語になりうるのだということを、最近よく考える。生きるということが、その人固有の主題を形作っていくことである、ということを証明してくれるのは、まさに一人の人間の毎日の行為が一つの大きな物語を形成するということにある。

そのように考えると、より一層、日記という表現形式の力を感じざるをえない。若干矛盾をはらむように響くが、小説のような文学形式にしかできないことを、日記を通じて成し遂げることも可能なのではないか、と思うに至る。

その思いは、小説も日記も、物語を扱うという基底を共有しているという気づきからやってきた。 この夏に、未編集の日記を一気に編集したいという思いが湧いてきた。過去の日記を編集するというのは、私にとって、過去の自分を振り返ることにとどまらない。

過去の自分を編み直し、再編成し、新たな自己を形成することに繋がりうるような行為であると最近気づくようになった。編集を始めた初期においては、過去の文章を尊重するあまり、文章の誤字脱字を修正することだけにとどまっていた。

しかし、それは編集と呼べるような行為ではないだろう。過去の日記に対して、それを読む現在の自己から新たな文章を書き足していくことが重要なのだと思う。

仮に、無数に枝分かれした植物が美しく見えるのであれば、必要に応じて、冗長さを感じさせない植物のつるのように巻きつく文章を書き足していくことが大切だ。2017/5/13

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