今日は午前中から、無性に昔のことを振り返っていた。昔といっても、ここ七年間ぐらいの話だ。
この期間について自分がやたらと回想することが多いのは、それが私の人生の中でも大きな意味を持っていたからだろう。この七年間のうち、六年ほどが日本の外で形作られたものである。
この七年間を振り返りながら、やはり自分がまだ何もわかっていないということを痛いほど思い知らされる。七年前と現在を並べてみるならば、確かに私は何かが見え始めているのかもしれない。
だが、それは極めて些細なことであり、見えるであろう事柄のほんの一握りの部分でしかないことを日々痛感している。学ぶということは恐ろしく、何かを学べば学ぶほど、自分は何も知らないということが徐々に明るみになってくるのだ。
学ぶということが、決して知識の拡張などではないことがここからも明らかだ。学ぶことは、知ろうとする事柄に近づいていくことではなく、それとの絶望的な距離を思い知らされる過程なのだと思う。
これは決して、学ぶことに伴って、自分の無知さに気づかされるという呑気な事柄を意味しない。無知は人間の本質であり、自分の無知さをなんともすることはできないという諦念を持ちながら、それでも歩かなければならないという意志を喚起し、実際に歩き続けることが、学ぶことの本質にあるような気がしてならない。 先ほど考えずにはいられなかった、自己の存在の基底にある母国語の言語空間と同様に、無知に対する諦念からの歩みというのは、私にとってとても大切な事柄のように思われる。激しい雨が通り去った後の景色をぼんやりと眺めていると、先ほどの主題と間接的に関係したテーマに思いを巡らせていた。
それは、「回帰」という事柄だ。先日読み終えたジル・ドゥルーズの書籍の中に、「永遠が作る回帰の道」と「回帰が作り出す永遠の道」の二つがあるというような指摘がなされていた。
これはとりわけ私が興味深いと思ったものである。私は近頃、自分が何か巨大なものに近づこうとしているという感覚と同時に、その巨大な何かが自分に近づいてこようとしているという感覚を持っていた。
これらは逆方向のベクトルを持ち、同時に、それらは繋がっている。これらの感覚と、ドゥルーズが言わんとしている二つの回帰の道が無性に重なって見えたのだ。
つまり、私は時折、永遠が作る回帰の道と回帰が作る永遠の道の双方を歩いているような感覚がするのだ。 昨日、非線形ダイナミクスに関する応用数学の専門書を読んでいた時、そこに記述されている内容から飛躍して、ポアンカレの回帰定理に考えが飛び移った。その瞬間、嬉々とした戦慄が背筋を走った。
ポアンカレの回帰定理は、ダイナミックシステムが時間の経過に応じて、出発点に近い位置に無限回戻ってくる現象を説明する。要点は、出発点に戻ってくるのではなく、出発点に近い位置に無限回戻ってきながらダイナミックシステムは運動するのである。
つまり、回帰とは、同一のものへ戻っていくことを指すのではなく、同一のものへ戻っていく装いの中で、差異を生み出す運動のことを指すのだ。これは発達の肝である、と自分の直接経験から直感的にわかった。
それは、嬉々とした戦慄を伴う理解であった。東洋思想、とりわけ日本古来の思想に帰ろうとする私は、永遠が作る回帰の道と回帰が作る永遠の道の双方の上にいるのだとわかる。
「歩く」というのは、現在の自己の近郊点に戻り続けながらも、絶えず異なる場所を踏みながら、これらの道の上を進んでいくことを意味するのだろう。2017/5/12