この数日間ほど、少しばかりベートーヴェンのピアノソナタを離れている。その代わりに、今日は早朝から、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスのピアノ協奏曲を聴いていた。
とりわけ、ブラームスのピアノ協奏曲に対して息を呑む瞬間が度々訪れた。こうした体験を体験として片付けるのではなく、そうした感覚を引き起こす根源的なものを掴みたい。
そこに美の本質や美の創出に関する鍵が存在していると思うからだ。自分を掴んで離さないものの奥には、必ず重大な何かが潜んでいるのだ。
それは非常に個人的なことでありながら、それは人間に普遍的なものにつながることだとも思う。そのようなことを思いながら、つくづく個人を貫くテーマのようなものがなければ、内側のものを外側に形として表現しても全く意味はないという考えが浮かんできた。
自分を掴んで離さないようなテーマから出発し、そのテーマとわずかばかりも離れることなく表現活動に従事していく必要がある。自分を貫くテーマと離れてしまった表現物は、生命感が全くないのだ。
個人を貫く固有のテーマは、内側の思念や感覚を生きた形で外側に表現するための核であり、それを欠く場合、表現物が死物と化してしまうのだ。これは探究活動においても全く同じである。
他者とテーマが共鳴することは起こりうるが、他者のテーマを表面的に追いかけているだけでは何も始まらない。そのようなことをしていては、探究が深まることは断じてない。
探究の出発点は、徹頭徹尾、自己を惹きつけてやまないテーマでなければならない。自己を貫く固有のテーマは、探究の出発地点であるのと同時に、自分自身の思考や感覚を通じた探究活動の中継地点になり、帰還地点になる。
自分のテーマから出発し、自分のテーマを経由し、自分のテーマに帰っていくことが何より大切だ。他者のテーマがそのプロセスに入り込んでくるのは避けようがなく、かつそれは不可欠なのだが、他者のテーマに囚われていては決してならないのだ。そのようなことを激しく思う。 午前中、ピアジェの書籍を読み進めている中で、ピアジェが、アルフレッド・マーシャル、ジョン・メイナード・ケインズ、ヴィルフレド・パレートなどの経済学者の理論に触れていたことに少々驚いた。
同時に、タルコット・パーソンズをはじめとした、社会学者の理論にも関心を持っていたピアジェの姿を初めて目撃した。そこから、ピアジェが洗練させた「発達的均衡」という概念は、経済学における均衡理論や社会学における社会的均衡理論に着想を得たものだということがわかった。
経済や社会の発展過程には、個人の発達プロセスに見られる均衡現象が等しく見られる。均衡の生成過程と均衡の崩壊過程は今の私の強い関心事項でもあり、昨日眺めていた専門書の中に、上記で取り上げた学者のほとんどの名前が掲載されていたことに気づく。
ピアジェは、それらの学者の仕事を叩き台にし、自らの発達思想を打ち立てて行ったのだ。私がそれらの学者に関心を向け、ピアジェもそれらの学者に関心を向けていたというのは偶然であり、必然だろう。
自分のテーマから出発した際に、まさにこうしたことが起こり得るのだ。そのことを強く実感させてくれる出来事だった。2017/5/8