修士論文の原稿を読み返すことは、本日の最優先課題であった。しかし、気づいてみると、午後四時を過ぎてもまだその仕事に着手していない。
夕食の時間が近づき始めた頃、ようやく自分の心がそれに取り組むべき時期を迎えたのだと知る。何事でもそうだと思うが、「期が熟す」というのはとても大事な考え方のように思える。
振り返ってみると、これまで私は、期が熟すよりも早く着手してしまったばっかりにものにならないことが多々あった。一方で、自分の人生の中で、その時期に相応しい課題と関心事項に出会うという幸運を得ていたのも確かである。
何を隠そう、今私がオランダで探究生活を送っていることは、それをするに相応しい時期が私に訪れたからだと思うのだ。それが一年早くてもダメであり、一年遅くてもダメだったと思う。 フローニンゲンもようやく春を迎えたようであり、新たな季節の到来とともに、自分の内側にも少しばかり変化が見られる。長い冬の時代、私の意識は常に自分の内側に向かっていたように思う。
それは単純に寒く鬱蒼とした環境のせいだとは言えないが、今の私の生活環境が思考を常に内へ内へと内省的に向かわせたのは間違いない。長い冬を経験している最中、絵も言われぬ孤独感に苛まれる瞬間が何度かあった。
義務教育を終えて以降、人との接触を極力避けるような生活態度が私の中に醸成されつつあったことを考えると、ここで言う孤独感が、単なる人との会話や接触を意味しないことは明らかである。だが、筆舌に尽くしがたい孤独感が私を時折襲うことがあったのは確かだ。
それはおそらく、社会的に構築された自己から完全に脱却した際に起こる、これまで身に纏っていた衣を剥ぎ取られるような寂寥さを伴う孤独感であり、最後の最後に拠って立つものは結局自己の一点であるという気づきから生まれる孤独感であった。
時折訪れるそうした孤独感と向き合いながら、私は冬の時代を一日一日過ごしてきた。ある時から、そうした孤独感がいつの間にか消失し、自分がまた違う場所に到達したのだということを知った。
その過程で、自分の内側に固有な現象を外側に形として表現していくことの意味と意義を見出したことは極めて大きなことであった。今年の冬に、再び新たな質を伴う孤独感が生まれてくるかもしれない。
その時、その孤独の質はこれまでにないほど深いものになるだろう。それでも何とかその場に立ち続け、歩き続けたいという透徹した意思が自分にあることを信じたい。
春を迎え、内側に向かっていた意識が外に向かい、それはこれまでとは違う円弧を描きながら自分の内側に戻ってくるかのようであった。2017/5/7