森閑とした辺りに、姿の見えない鳥の鳴き声がこだまする。フローニンゲンの街は夜の九時を迎えたが、まだ闇の世界が訪れていない。
今日は一日中曇り空であったため、この時間帯の空模様がより鬱蒼としたものに見える。しかし、闇の世界に今にも入ろうとする世界の中で、姿の見えない鳥の鳴き声はより存在感を増していく。
私はまるで深い森の中で生活をしているかのようである。人影もなく、自然だけに囲まれた深い森の中で、生き物たちの声を聞きながらその日を終える。
そのような生活風景が私の脳裏に浮かんでくる。鳥の鳴き声は、止むこともなく遠方からこちらにやってくる。
今の私の心象風景に呼応するかのように、書斎の中でベートーヴェンのピアノソナタ第14番『月光』の第1楽章が流れ始めた。演奏者はアルトゥル・シュナーベルというピアニストだ。
シュナーベルの演奏を聴きながら、ピアニストも自らの演奏を自分で創造していくという確固たる意志がなければ、人工知能に取って代わられるような存在なのだと思った。これは、ピアニストに限らず、科学者でも小説家でも、創造に携わるありとあらゆる職種に当てはまることだろう。
あえてピアニストに限って言えば、仮に楽譜に書かれていることをそのまま演奏するだけに留まるのであれば、人間の演奏よりもコンピューターの演奏の方が圧倒的に正確であるがゆえに、人間のピアニストの演奏に価値など見いだせなくなってしまうだろう。
重要なのは、演奏家という一人の人間が持つ固有の思想と経験を演奏の中で表現していくことなのだと思う。仮にこれができなければ、演奏家は遅かれ早かれ人工知能に取って代わられるだろう。
それゆえに、人工知能に生み出すことのできない固有の人間の思想と経験の総体を演奏の中に表現することが大切なのだ、ということをシュナーベルの演奏を聴きながら思った。また、ピアニストが演奏の中で自らの思想と経験を表現するためには、そもそも表現に足るだけの思想の成熟と経験の総体が構築されていなければならない。
正確無比の機械的な演奏なら人工知能で十分に行える。しかし、一人の人間という固有の存在だけが持つ思想と経験が織りなす音は、人工知能に易々と奏でることはできないだろう。
シュナーベルの演奏は、思想を深めていくことと、経験の総体を構築していく研鑽を積むことの重要性を改めて感じさせてくれる演奏だった。 深い森の中で静かに生活を送っているような感覚が依然として続いている。私はこの生活を少なくとも後二年間、オランダのこの地で送ることになる。
日々が黙想的であり、生きることのすべてが観想的であることを何よりも望む。そうした生活の中で、今この瞬間に私を包む、深い森のような感覚の深さよりもさらに深い思想と経験を育んでいきたい。2017/5/5
追記
北欧の森。とりわけ、ノルウェーに偏在する森がどれほど深いものなのかを、自らの眼で確認したいという思いが日増しに強くなる。
やはり八月は、ノルウェーに足を運ばなければならない。2017/5/17