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1031. 第二弾の書籍の副題について:「実践的」という実践的でないものに関して


夕方から第二弾の書籍の再校に修正を施す作業に取り掛かった。現在は第一章に対して修正を加え、二章から五章にかけては編集者の方から再校を送っていただくのを待っている。

とりあえず今の自分にできる作業を進めていった。初校になる前の原稿と比較してみると、再校は随分と余分な肉が削ぎ落とされ、凝縮感があるように思う。

印刷用の最終原稿として、文章全体が凝縮性と共に一本の幹でつながった全体性のあるものとしたい。再校への手直しを少し行い、夕食前に入浴をした。

入浴時にふと、「考える」という動詞が動詞であるゆえんについて考えていた。世間一般では、考えるという行為と行動するという行為が別物として扱われているのではないか、という問題提起があった。

そもそも、考えるという行為が「考える」という動詞として存在している本質には、考えるということは行動するのと同じぐらいに実践的だという意味が含まれているのではないだろうか、と思った。私にとって、考えることは行動することと同じぐらいに動的であり、行動すること以上に実践的なものに映る。

この問題に付随して、書物を読むというような座学に対して否定的な目が向けられ、それが実践的なものではないと見なされる傾向にあるのは、そもそも「書物を読むという実践」と並行して「考えるという実践」が行われていないからだろう。

書物を読むというのは決して受動的なものではなく、極めて能動的なものであり、考えるという行為と本来不可分であるがゆえに実践的だと思うのだ。行動することだけが実践的だと捉えるならば、人間以上に動物の方が実践的な生き物だと言えるだろう。

第二弾の書籍の副題に「実践的」という言葉を用いたのは、それが実践的な内容を持つというよりも、私の中では、世間一般に思われている「実践的」という意味をもう一度見直す必要があるのではないか、ということを訴えるためであった。

「実践」を強調する人の中に、真に実践的な人を私はほとんど見たことがない。「実践」という言葉が内包する意味にも当然ながら階層性があり、世間一般に用いられている「実践」というのは、極めて低い段階の意味に貶められてしまっている。

そうした状況に光を当て、実践という言葉の本来の意味を取り戻す必要があるのではないか、という問題提起を第二弾の書籍の中で行いたかったのだ。先日から本日にかけてやり取りが続いているオットー・ラスキー博士の発達理論で言えば、「実践知」というのは、単なる行動的な実践を積み重ねて獲得できるようなものではない。

実践知を獲得するためには、単なる行動以上に、何よりも「考える」という絶え間ない実践がなければならないのだ。 これは以前の日記で書き留めていたことと関係しているが、哲学のように新たな言語体系を私たちに提供してくれる学問は、それが新たな言葉を私たちにもたらすがゆえに、私たちの認識を変容し、行動を変容させていくのだ。

ここでも、新たな言葉を獲得していくことは、認識変容と行動変容を本質的に伴うべきものであるがゆえに、それは実践的なのだ。もしそれが実践的でもなく、認識変容も行動変容も伴わないのであれば、それは新たな言葉を獲得したことにはならないし、哲学と真に触れたことを意味しない。

「実践」という言葉を安易に用いるのではなく、その言葉が持つ本質的な意味を考えるという実践を行ってからその言葉を用いるべきだろう。そのようなことを入浴中に考えていた。2017/5/5

追記

第二弾の書籍のタイトルが『成人発達理論による能力の成長:ダイナミックスキル理論による実践的トレーニング』から『成人発達理論による能力の成長:ダイナミックスキル理論の実践的活用法』に変更となった。2017/5/17

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