書斎に鳴り響くベートーヴェンの力強い交響曲とは打って変わって、今の私はとても神妙な気持ちに包まれている。たった今、昨年の夏に日本を離れる直前から読み始めていた、辻邦生先生の『パリの手記』全五巻を読み終えた。
私が米国での最初の二年間に陥った精神的な危機に再び陥ることを避けるために、欧州での生活を始めるにあたり、私は生きた本当の日本語を求めていた。決して死物と化した日本語ではなく、生命が宿っていると言わんばかりの日本語が私には必要だった。
欧州の旅立ちの前に、私は辻邦生先生が執筆した小説作品以外の全ての日記とエッセー集を購入していた。それらを持って私はオランダの地に降り立った。
昨年の八月にオランダに到着して以降、私は折を見て、意識的に日本語の文章に触れるようにした。上述したように、それは米国で経験した精神的危機を欧州での生活において経験しないためであった。
欧州での生活を始めるに際して、一貫して私は、自分が日本語だと認める日本語しか目を通さないと頑なに決めていた。日本語という言語にもイデアのようなものが存在するのであれば、そのイデアが滲み出るような日本語しか触れないという態度を持って欧州での生活を始めた。
自身の実存性とある種の魂のようなものが沸き立つ日本語の文章を執筆している一人に辻先生がいた。オランダでの生活の始まりとともに、私は毎週末ではないものの、定期的に辻先生の日記をゆっくりと読み進めていた。
辻先生は、1957年の秋から1961年に春にかけて、およそ三年半にわたってパリに留学をしていた。留学と言ってもどこかの大学に所属していたわけではなく、小説を執筆することの意味を見出すため、そして小説を創出するための方法論を確立するために、パリで三年半ほど探究活動を行っていたのである。
このパリでの探究期間が、小説家としての辻邦生を形作ったと言っても過言ではないだろう。実際に、パリでの探究活動を終えてから、辻先生は本格的な創作活動に入る。
辻先生がこの手記を執筆していた年齢は、私が欧州へ渡った年齢とほとんど同じである。また、当時の私は辻先生が抱えていたのと同様の課題を抱えていたということも、この手記に私が惹きつけられた理由だろう。
私は辻先生の手記を読みながら、いつも大きな励ましを得ていたと言える。時に痛々しい記述や深い苦悩が記された先生の手記を読みながら、何かを創造することの意味と創造するための条件のようなものの一端を私は掴むことができた。
それは私にとってとても大きなことであり、掛け替えのないことだった。先ほど全五巻の最終巻を読み終えた時、私はここから再び、自分の仕事をなすための試みを始めなければならない、と覚悟を新たにした。
私の内側では一切の仕事が始まっていないため、そこに向けて絶えず研鑽を積みながら日々の取り組みに向き合っていくことが何よりも大切なのだ。
最終巻を読み終えた後に感じていた神妙な気持ちは、新たな始まりの呼び鈴であるとともに、自分が確かな歩みを着実に進めていることを示す通達のようであった。2017/5/5