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1021. 創造への目覚めと内側の鬼神


昨年の11月頃から湯たんぽを用いながら就寝しているのだが、5月に入ってもまだそれを使う日が続いている。昨夜就寝前に、しばらく仰向けになりながら取り留めもないことを考えていた。

一つには、今現在のような生活を長く継続させていきたいということであった。二つ目は、自己批判に関するものである。

仰向けになっている最中も、自分がまだ一切の仕事を始めていないことを自分自身で批判をしていた。仕事を始めるための準備に関して、量と質が圧倒的に欠落しているという自己批判の目を自分自身に向けていたのだ。

精神分析学の言葉を用いれば、こうした自己批判を加える存在は超自我と言っていいのかもしれない。最初はそのように考えていた。

しかし、どうも超自我の存在と一言で済ますことができないような気が最近し始めているのだ。人間の発達には「健全な自己批判」が必要であると言われる。

確かに、現代社会を見渡すと、健全な自己批判の精神を忘れてしまっているような状態が見受けられる。これは危惧すべき現象だろう。

健全な自己批判のないところに真の成長や発達はない。現代社会において、超自我が機能不全に陥ってしまっている個人や組織を多く見かけることについてしばらく考えていた。

健全な自己批判の重要性を強調する自分がいる一方で、就寝前に自分に向けていた批判の矢は、「健全」という言葉では容易に括れないものであるような気がしていた。まるで鬼神のような存在に捕らえられる感覚があったのだ。

その感覚は、批判の度合いが強いという意味ではなく、批判の出所が根幹的なものであり、なおかつその批判が本質的であるというところから生まれていた。「鬼神」というのは仰々しいが、今のところ、そのような存在が自分の内側にいることを見出したことだけは確かだ。

そして、これは超自我のような存在とはまた別種のものであることが感覚的にわかっている。仰向けになりながらもう少し考えを巡らせていると、鬼神を自己の内側に見出したことは喜ばしいことなのかもしれないと思い始めた。

それは否定的なものではなく、排除されるべきものでもない。今の私は、もはや健全な自己批判という緩い矢が自分に刺さらなくなっている。

そのため、ここから歩みを進めていくためには、鬼神のような存在がもたらすより根本的かつ本質的な自己批判が必要なのだ。不思議なもので、私が内側の現象を絶えず外側に形として表現していこうと誓って以降、この鬼神のような存在が顔を現し始めた。

ひょっとすると、それは創造を司る何者かなのかもしれない。自分がこの世界に何かを創出していこうとする覚悟を決めた時に、それが姿を現し始めたのだ。

そのようなことを考えると、創造への目覚めと自己の内側に鬼神を見出すことは密接に関係しているのかもしれない。何かを創造するために、そして創造への準備に向けて、内側の鬼神はかけがえのない存在なのだ、ということを考えながら就寝に向かった。 昨夜は夢の中で、飛行機の機内の中にいた。どこの国からどこへ向かっているのかは定かではなかったが、それが日系の飛行機であったことは確かだ。

ゆったりとした座席に腰かけながら、私は仮眠を取ることにした。同じ姿勢のまま寝ることを防ぐためなのだろうか、一時間に一度ほど、もし同じ姿勢で寝ていたら耳元でアラームが鳴るような装置があった。

夢の中で睡眠を取る夢を見たのは、久しぶりであった。顕在意識の私が眠りに落ち、無意識の私も眠りに落ちるということの意味をまた考えたいと思う。

夢の世界のその奥にさらに夢の世界がある。であれば、この表層的な現実世界は何なのだろうか。2017/5/2

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