食卓の窓から見える景色が随分と春らしくなった。それを象徴するのは、今目の前の広場に咲き誇っているタンポポだ。
真夏の太陽よりも鮮明な黄色を発するタンポポがついに姿を見せてくれた。食卓の窓から見える広場は、小さなタンポポ畑になっている。
そのタンポポ畑の中を乳母車を引いた二人の両親の姿が見えた。その乳母車には女の子が乗っているようだった。
タンポポ畑をゆっくりと歩いていく家族を見ていると、それを見ているこちらも幸福な気持ちになった。私は、咲き誇るタンポポの姿と家族の幸せそうな姿の相乗効果が相まって、二重の意味で幸福感を得ていたのである。
そのような幸福感に浸りながら、私は昼食を食べていた。ランニング後の昼食の美味しさは群を抜いている。
同時に私は、食べるために仕事をするのではなく、仕事をするために食べるのだという認識を改めて持った。食べるために日々文章を書いたり読んだりしているのではない。
文章を書くため・読むために食べているのだ、という発想を再度強く持った。これは幾分発想の転換と呼べるものかもしれない。
発想を転換するためには、何よりも転換されるべき観点がまずもって不可欠であり、さらには、発想の転換を促す観点が不可欠だ。単純な観点主義に陥ることを避けなければならないが、観点を獲得し続けていくことは非常に大事だと思う。
物を考えるためにも、何かを実践する際にも観点が必要なのだ。そして、既存の考えや実践を乗り越え、それらを深めていくためには新たな観点が不可欠なのである。
以前の日記で書き留めていたように、現代社会において、観点の不足は深刻な問題の一つなのではないかと思う。身も蓋もない言い方をしてしまうと、それは「不勉強」という言葉に集約されるかもしれない。
私も日々、自分の不勉強性と格闘し続けるような毎日を送っている。自分の無知さが露呈しなかった日は、これまでの人生の中で一日たりとも存在しない。
昨日もそうであったし、今日もそうだ。そして、明日もそうだろう。
自分の内側の現象を今よりもより正確に表現するための観点が私には必要であり、自分を知り他者を知るという人間理解においても、その認識を絶えず深めるための新たな観点が常に必要なのだ。現代社会に蔓延する不勉強さと無知さへの批判の思いが強ければ強いほど、それは自分への批判を強めることになる。
絶えず自己を乗り越えていくためには、こうした自己批判は不可欠なものであり、それを抱えながら日々の探究に打ち込みたいと思う。この問題に付随して、午前中に読んでいたジル・ドゥルーズの書籍“Difference and Repetition (1968)”の冒頭には興味深いことが書かれている。
それは、「私はこの書籍を通じて初めて自分の哲学をした」という意味の言葉である。この言葉は私にとって大変印象的だった。
私は、ドゥルーズがこの哲学書を生み出すまでの長い下積み期間について思いを巡らせていた。このような哲学体系を打ち立てるためには、絶えず新たな観点を獲得し、それらを絶えず磨き、観点を絶えず組み合わせながら一つの体系に向かっていくという長大な下積み期間があったのだと思う。
これはドゥルーズのみならず、自分固有の一つの体系をこの世界に表した全ての人物に当てはまることだろう。ベートーヴェンの音楽体系しかり、私が尊敬する発達科学者のカート・フィッシャーやポール・ヴァン・ギアートもそうだ。
彼らは一様に長い下積み期間を経て、自分の体系をこの世界に表したのだ。今の私にはまだまだ長い下積み期間が必要である。
そして、この下積み期間をどれだけの密度で過ごすかが何よりも重要なのだ。蟻地獄のような抜け出せないほどの深い下積み期間が欲しい。2017/4/29