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1006. 音楽を暗示する奇妙な夢と作曲について


昨夜も奇妙な夢を見た。この夢も先日の夢に引き続き、音楽に関するテーマが潜んでいるような夢だった。

夢の中で私は、小学校か中学校の体育館の中にいた。いたって普通の体育館である。

この体育館には四隅のそれぞれにドアがあり、それらのドアは閉まっていた。しかし、内側から鍵をかけている様子もなく、外側から誰でも入れるようになっていた。

体育館の中には、私以外にも友人が何名かいた。私たちは、体育館の中で運動をすることもなく、一つのプロジェクトに向けて話し込んでいるようだった。

なにやら、その日の夜七時ちょうどに、小さな怪物が体育館に押し寄せてくるとのことであり、それらを全て撃退する必要があるとのことであった。このプロジェクトに向けて、私たちは戦略を練っていた。

体育館の四隅には、二階に上がるためのはしごが設置されていた。二階と言っても、それはフロアではなく、狭い通路がそこにあるだけだ。

四隅に設けられたはしごのどこか一つに自動小銃のようなものを設置できることになっていた。私たちは、その武器をどこのはしごに設置するのが最適かを話し合っていた。

七時ちょうどに襲来する小さな怪物たちが体育館のどこのドアからやってくるのかは、すでに明らかになっていた。また、それらの怪物の行動特性もなんとなく把握していたため、結局、怪物たちがやってくるドアと対角線上にあるはしごに自動小銃を取り付けることにした。

怪物たちの行動特性を考慮すると、対角線上にあるはしごに向かって来るということが予測されたが、中には例外的に別のはしごに向かうものもいることが予想された。そうした例外にどのように対処するかについて少しばかり話し込んでいた。

それらの例外に対しては、手持ちの拳銃で対応するしかないという結論に落ち着いた。私たちは、夜の七時に向けて二階の通路に待機することにした。

人員の配置についても議論していた通りであり、怪物の襲来に向けての休憩のローテンションもすでに組んでいた。友人の一人が通路で仮眠をしており、別の友人が突然、自動小銃の設置の位置を変える必要があると主張し始めた。

彼の論拠は、ネットワーク理論の中にある一つの原理であった。しかし私はすかさず、その原理は100体を超す個体運動に適用できるが、今回は60体しかやって来ないため、その原理は適用できないと反論した。

また、怪物の襲来時刻が迫っていたこともあり、今更自動小銃の位置を変えることは得策ではないと主張した。結局、元の位置に自動小銃が置かれることになり、私たちは怪物が訪れるのを静かに待っていた。

律儀にも七時ちょうどに60体の怪物が体育館内に侵入してきた。それらの怪物は予想通り、50cmほどの小さな大きさであった。一つのドアから一体一体の怪物が体育館内に侵入する様子を、私は二階の通路から眺めていた。

怪物たちの行動は奇をてらったものではなく、私の予想の範囲内であった。事前に予想していた通り、ほとんどの怪物が、侵入してきたドアと対角線上にあるはしごに向かって進んでいった。

そして、はしごの一番下、下から二番目、三番目を飛ばして四番目に取り付けられた三つの自動小銃によって、怪物たちは次々と撃退されていった。ごく稀に、三つの自動小銃を飛び越えて、さらにはしごを登ってくるような怪物もいたが、それらも全て手持ちの拳銃で撃退することができた。

次々に撃退されていく怪物を観察している時、撃退される瞬間に怪物たちが小さな音を奏でることに気づいた。それも、一体一体が異なる音を発しながら撃退されていくことに気づいたのだ。

その時、私はそれらの音をもとに一つの音楽を作ることができると確信していた。あるいは、怪物たちが撃退されていくプロセスそのものが一つのメロディーであり、一体一体が撃退されていく際に発する固有の音が、すでに一つの音楽になっているような気さえしていたのである。

そうした気づきを得て、夢から覚めた。夢が暗示していたことに思いを馳せながら、昨日の夜の出来事について振り返っていた。

昨日は、夕方の仕事に目処が立ったため、一時間半ほど作曲についての学習と実践を行っていた。実践と言っても、どの作曲ソフトが一番使いやすいのかを実際に手を動かしながらあれこれ試している程度だった。

そうした試行錯誤を経て、自分に使いやすいソフトを一つ発見することができたので、今後はそれを活用していこうと思う。昨夜の気づきは幾つかある。

一つには、最初は一分から三分ぐらいの短い曲を多く作ることを意識し、一つ一つの曲の構成を大切にしていこう、という気づきである。作曲について学習を進めていると、自然言語を用いて文章を作るのと同じような文法があり、文章全体に起承転結などの構成があるように、曲にもそうした構成があることに改めて気付かされた。

最初のうちは、そうした構成に忠実になることが重要であり、型が完全に身についてからそうした構成を少しずつ逸脱するような曲を作っていくという方針を固めた。また、一つの曲の中に、三つか四つの構成を設け、一つ一つの構成がさらに三つか四つの構成的な意味を持つようにしたいという考えも湧き上がっていた。

一つの曲は必ずフラクタル構造を持つという思いがあり、そうしたフラクタルをいかに表現していくかが大切に思われた。作曲ソフトが決まり、これから本格的に作曲に必要な言葉と文法を学んでいく必要があると思い、それらを体系的に学べる一冊の専門書を明日購入することに決めた。 「優れた器楽なら、その特定の表現は概念に還元できる。そのため、それを明確な言葉で言い表すことは可能である」という言葉を残したベルギーの作曲家アンドレ・グレトリーの考えには共鳴するものがある。

そもそも、今回作曲活動を始めることにしたのは、自分の内側にある現象がもはや自然言語で表現しきれないほどに膨れ上がり、それらを音楽言語で表現したいという思いが湧き上がったからである。

また、そうした表現を通じてさらに深く自分の内面領域を捉えていくということだった。そうした課題を突破するのはまさに、自分が表現したい現象を音楽言語の形に変え、そこから自然言語の形に戻しながら捉え直すことにある、という閃きが得られた。

その実現に向けて、まずは作曲に必要な言葉と文法を少しずつ学習していきたい。そのようなことを考えていると、夢の中で撃退されていった小さな怪物たちは、私の内側にある無数の小さな自己なのではないか、という気づきが得られた。

これは「そうなのではないか」という疑問ではなく、「そうなのだ」という確信に近い。昨夜の夢の中で撃退されるとともに音を奏でていたのは、私の内側に存在する無数の小さな自己である。

そうであるならば、作曲というのは私にとって、内側の現象を外側に形として表現するというよりも、内側の小さな自己を死滅させる試みであり、そこから新しい自己を生み出していくことに他ならない。

それは、自己の自己に対する闘争と克己そのものだ。2017/4/29

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