昨日の夕方、カントの “On Education (1899)”を読んだ。この書籍は分量は極めて少ないが、最初から最後までを通して読み直したのではなく、自分が関心を持っているテーマだけを取り上げて読み返した。
カントが最終的に向かった先は、内なる自由の尊重とそれを育むための教育だったように思う。本書の内容には、現代の実証的教育学の観点から見れば思わず首を傾けたくなる箇所が散見されたが、カントの教育思想を貫く「うちなる自由の尊重とその涵養」というテーマにはとても共感するものがある。
また、教育というものが、子供のみならず大人の人間性と精神を継続的に育んでいくための不可欠のものであるとみなしていた点も、私が思うことと合致している。以前に少しばかり不思議に思っていたのは、カントを含め、バートランド・ラッセルやアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドなどの偉大な哲学者たちが、人生の後半で教育について自らの思想を残していることであった。
エリク・エリクソンの生涯発達理論に基づけば、彼らの年齢はまさに後世に何かを伝承していこうとするような発達段階に該当しており、彼らにとっては伝承するべきものが教育思想だったのかも知れない、という表面的な考えが頭に思い浮かんだ。
おそらくは、そうした説明以上に深い理由があったのだろう。彼らが教育の問題を取り上げ、そこに向かわせた何かがあるはずなのだ。
彼らのような哲学者が教育という実践領域を取り上げたことからも、彼らが抽象的な哲学体系を構築しただけではなく、その哲学体系を実践に架橋さようとする姿勢を持っていたことが伺える。また、彼らが究極的には人間の本質を探究していたがゆえに、人間の本質を根幹から支える教育というものに最終的な関心が移っていったのかもしれないとも思う。
九月から始まる二年目のプログラムでは、実証的教育学を学んでいく予定であるため、教育心理学や学習理論のみならず、教育哲学についても自分の考えを深めていきたいと思う。 昨夜は就寝前に、もう一冊ほどカントの書籍に目を通していた。それは、“Critique of Judgment (1790)”です。この書籍を最初に読んだのは、一昨年に東京に滞在していた時であった。
すでに一読していたため、書き込みが所々にあるのだが、内容に関してはほとんど覚えていなかった。本書の主題をまず最初に確認していた時、ベートーヴェンがなぜカントの哲学思想に感化され、傾倒していたのかがわかった気がした。
それは以前の日記で記していたように、両者が共に「内なる自由の希求と獲得」をテーマにしていたことが根幹にあるが、さらには、二人が生み出した創造物が共に建築性を帯びているということが関係しているだろう。
ベートーヴェンの音楽が持つ建築美は、カントの哲学が持つ建築美の中に見て取ることができる。本書の主題は人間の判断力に対する考察であるが、その中でまさにカントは美的判断についての考察を展開している。
その思想展開の仕方に建築性が現れ、そこに建築美が生み出されていることに気づく。本書は美学を研究する者が必ず参照するものであり、おそらく現代の美学研究において、本書の記述についてかなり否定的な見解もあるだろう。
だが、私たちがある対象に対して美的感覚を抱くのは、私たちの精神が美を必要とし、対象の中から意味と美を汲み取るような特質を持っているからである、というカントの主張は私の考えと合致する。意味と美というのは、今の私にとって非常に大切なテーマだ。
人間は本質的に、意味と美を見出す生き物なのかもしれない。同時に、意味と美を作り出すことを宿命づけられた生き物でもあるのだ、と思う。 私はカント研究者では決してないが、それでもカントの哲学には大いに啓発されるものがあるため、今後も彼の哲学思想に触れていくことになるだろう。当面は、カントを教育者とみなし、発達論者とみなしながら彼の仕事と向き合っていく時間が長くなるだろう。
内なる自由、教育、意味と美、それらは私を探究へと向かわせる途轍もない力を持っている。2017/4/27