実は、今日は修士論文の手直しをする予定だったのだが、全くその仕事が進まなかった。進まなかったというよりも、取り掛かってもいなかった。
それぐらいに、無性に気になる書籍があり、それを読むことに夢中となり、同時に、日本語で日記を書き留めておくということに多くの時間を充てていた。 読書をしながら、そして日記を書きながら、改めて考えていたのは、その場所が表現形式と表現内容に及ぼす影響であった。自分の日記を読み返しながらふと気づかされたのは、その日記をどの場所で書いていたのかということが、表現形式と表現内容に大きな影響を与えているということだった。
表現形式とは語彙の選択や文章の構成のことを指し、表現内容は文字通り、表現対象となる内側の思念や感覚のことを指す。これらは表裏一体の関係を成すのだが、両者はともに、自分がその瞬間に物理的にどのような環境にいるのかに大きく影響を受けるのだ、ということに改めて気付かされた。
四月の初めに訪れたオーストリアでの日記を読み返しながら、フローニンゲンに戻ってきた今となっては、あのような日記を書くことはできないということにすぐに気づかされる。それは、質的な問題というよりも、形式的かつ内容的な問題だ。
その場所にいることによって初めて喚起される表現形式があり、表現内容というものがあるようなのだ。これは東京からフローニンゲンに生活拠点を移した時にも薄々気づいていた。
フローニンゲンで生活を送る中で、日本で書いていたような日記を書くことは到底不可能である。同様に、フローニンゲンで今書いているような日記を日本で書くことはできないだろう。
このように、私たちは言葉を生み出すということに関しても、場所からの影響を強く受けるのだ。場所と私たちの内面は相互作用の関係を結んでいる。
それを強く証拠付けるような体験が、随所に自分の中で起こっていることに気づく。文章を書くことと同じように、書物を読むことに関しても、場所というのは多大な影響を私たちに与える。
その場所でその書物を読むことによってしか汲み取れない意味があり、感動があるように思う。まさに、ベートーヴェンが遺書を書き残した場所でその遺書を読んだ時、激しく揺れ動かされるものがあったのはそれを如実に物語っている。
現在、書斎のソファの上にベートーヴェンが書き残した遺書の小冊子が置かれている。オーストリアから戻って以降も、何度かそれを読み返した。
読み返すごとに、私がそれによって大きく感化されているのは間違いない。だが、あの時あの場所で受け取った意味や感動は、もはやこの場所では得ることができない。場違いなのだ。
文章を読むということに関しても、場所がどれほど大きな影響を私たちにもたらすのか、ということを強く実感させる出来事だった。 音楽作品についても同様のことが言えるだろう。音楽家が残した作品を、それが誕生した場所で聴くというのは、また別種の体験を私たちにもたらすように思う。
オーストリアの旅の中でも、とりわけベートーヴェンが生きていた場所に足を運んだことは、私にとって非常に大きな意味を持っていたように思う。ベートーヴェン記念館で聴いた交響曲6番『田園』は、あの場所でしか発せられることのない場所の力が溢れ出していた。
もちろん、ベートーヴェンのように偉大な作曲家の作品は、作品それ自体が普遍的な次元にまで高められているがゆえに、どのような場所にいようとも一定の感動を得ることができる。しかし、そこに場所という要素が付け加わることによって、作品が露わにするものは別種かつ別次元のものになる。
そこでは並々ならぬ意味がこちら側に流れ出してくるかのようだ。私たちの精神は、内側と外側の両世界に等しく宿ることを忘れてはならない。
精神というものを内側だけに還元することも、外側だけに還元することも避けなければならない。場所が持つ力と尊さを改めて考えさせられるような夕方だった。2017/4/26