天気の予測に関して、人間の直感ほど当てにならないものはない。そのようなことをフローニンゲンに来てからよく思う。
起床直後の空の様子を見て、その日一日がどのような天気になるのかを予測することは、フローニンゲンの天気に限って言えば特に難しい。なぜなら、この土地では、突発的な雨や天気雨が発生することがしょっちゅうあるからだ。
今日もそれを象徴するような天気であった。起床直後に書斎の窓から眺めることのできた一塊の薄い雲は、早朝の穏やかな太陽の光によって紫がかった黄色に照らされていた。それはまるで印象派の絵画作品を思わせるような光景だった。
早朝の空には他に雲はほとんど見られず、しばらくすると雲ひとつない青空が広がり始めた。しかし、私は今日の天気が午前中に崩れるということを天気予報の情報によって数日前に知っていた。
今日は午前中の仕事を終えたらランニングに出かけようと思っていたのだが、いつもよりも随分と早い時間帯に走りに出かける必要があるかもしれないと思っていた。改めて天気予報を確認すると、やはり昼前から雨が降り始めるようだった。
正直なところ、今目の前に広がる青空と天気予報が伝える数時間後の天気の様子とが全く合致しないため、少し戸惑うほどであった。結局、早朝の天気が良い時間帯に私はランニングに出かけ、帰宅後一時間後に、天気予報通りに雨が降り始めた。
「タレントアセスメント」のコースで取り上げられた論文に記載されていた通り、人間の直感的判断の質はかなり杜撰であることを改めて知った。人間の直感が活きる場所は、複雑なシステムの動向の予測などには決してなく、別のところにあるのだろう。 ランニングから戻ってくると、 “Principles of Systems Science (2015)”に取り掛かった。800ページ近い大著である本書を読み通すのもいよいよ明日が最後となる。
今日は最後から二番目の章を読み進めていた。本書を読みながら、第二弾の書籍に込めた意図に関してまた少し考えていた。
数日前の日記に書き留めていた以外に、今回の作品に込めた思いは、観点の獲得と合わせて、知識と経験から自身のメンタルモデルを洗練させることの重要性だった。
私たちはいかなる時も、独自のメンタルモデルを通じて世界を認識している。錯綜とする現代社会において、複雑な現象に対応するためには、その複雑性に圧倒されないだけの質を持つメンタルモデルが必要である。
それはよく耳にすることだが、高い質を保つメンタルモデルを構築していくことの重要性は強調してもしすぎることはないように思う。とりわけ仕事の専門性が高ければ高いほど、そこで要求されるメンタルモデルの質は高度なものとなる。
自身のメンタルモデルが粗ければ、もはや仕事にならないような状況が近づきつつあるように思えるのだ。これは私自身の仕事を例に取ってもそうだと思う。
学術論文を執筆する際には、研究対象とそこで用いる理論や手法に対する高度なメンタルモデルが構築されていなければ、論文など執筆しようがない。また、成長支援コーチングやコンサルティングに携わる際において、クライアントに関するメンタルモデルの質が成長支援の質を左右すると言っても過言ではないということを日々痛感する。
結局のところ、自分のメンタルモデルが持つ質以上の仕事をすることはできないのである。研究にせよ実務にせよ、アウトプットの質は、インプットを加工するためのメンタルモデルの質がどれほどのものなのかによって大きく決定づけられるように思うのだ。
メンタルモデルとは、思考空間内の関数として機能している。興味深いのは、数学的な関数と幾分性質が異なるのは、思考空間内の関数は、アウトプットの質のみならず、インプットの質さえも変えてしまうような働きがある点だろう。
自身のメンタルモデルが質的に異なれば、世界の眺め方が異なり、得られる知識と経験そのものも変化してしまうのだ。そして、メンタルモデルの質的な差異は、世界との関わり方を意味するアウトプットの質を変えてしまうのだ。
私たちが持つメンタルモデルとはそのような特徴を持っている気がしてならない。第二弾の書籍で主張したかったのは、こうした特徴を持つ私たち自身のメンタルモデルを絶えず磨いていくことの重要性であった。
私たちのメンタルモデルは、実践を通じた新たな知識と経験の獲得によって発達していくのだ。この点は、あらゆる発達心理学者が述べている主張と全く同じである。
メンタルモデルそのものを高めることが重要なのではなく、複雑な現象に対処するためだけにそれが必要なのでもない。世界への深い関与のためにそれが重要なのだ。そのようなことを第二弾の作品を通じて主張したかったように思う。2017/4/26