ベートーヴェンについての思いや考えが、止めどなく流れ出してくる。やはりまだ何かが書き足りないようである。
ベートーヴェンは、シラーの詩を読むことに熱心であったのと同時に、シラーに影響を与えたカントの哲学思想に触れることにも熱心であった。改めて、カントが残した思想について思いを巡らせていた。
私の書斎の本棚には、カントの三大書を含め、いつくかの書籍がある。今朝方、居ても立っても居られなくなったので、それらの書籍を少しばかり読み返していた。とりわけ、カントの超越的な思想である、「宇宙全体が本来平和を意志している」という考え方に思わず息を飲んだ。
この言葉が持つ意味は、果てしなく深い。この思想から転じて、カントは「内なる自由」の尊さと重要性を強く説いていたのだということを改めて知る。カントが残した主要な哲学書を字面だけ追っていた時には、それらの気づきを得ることは当然ながらできなかった。
今、私は、カントが残した書籍を本格的に読む時期に差し掛かりつつあることに気づいた。「内なる自由」というのは、私にとっても極めて重要なテーマである。
カントが「内なる自由」に込めた意味を掴むまでに、長大な時間が必要となるかもしれない。それでも私は、それを掴むために動き出さなければならない。
カントが残した「内なる自由」という思想は、シラーとベートーヴェンに多大な影響を与えた。シラーが自身の詩に込めた切実な願いは、内なる自由に基づいた永遠平和の精神を実現することであった、ということに対して、無駄な言葉が一切出てこなかった・・・。
私は再びカントの思想と向き合いたいと思う。それもこれまでとは違う意志とやり方を持ってである。私はこれまで何度なく、カントに向かい、カントから離れてきただろうか。
カントから離れたというのも、カントという存在と彼が構築した思想体系に深く入り込んでからの脱却ではもちろんない。それは深く入り込む以前の段階の話である。
これまでの私がカントという存在と彼の思想に近づけなかったのは、結局、私を捉えて離さないようなテーマがカントの存在と思想体系の中にあることに気付けなかったからだろう。あるいは、そもそもそうしたテーマが自分の内側に無かったと述べた方が正確かもしれない。
ようやく私は、カントに近づいていく時期を迎えたのだと思う。カントの哲学に触れたのは、大学時代のことであったとはっきり覚えている。
当時の私は、経営学や経済学を主に学んでおり、哲学という領域は専門外であった。しかしある日、大学の生協で目にしたカントの哲学書に惹かれるものがあり、それを間髪入れずに購入したことがあった。
そして、その哲学書を持って管理会計学の講義に出席し、講義を聴く代わりに、その哲学書を読み耽っている日があったことを今、突然にして思い出した。あの時から今に向かって何かがすでに走り出していたのだ。
それは深まりを待つ何かであり、今この瞬間に取り組むべきことの根源である。一人の人間が追求するべきテーマというのは、必ずその個人の中にあり、それはゆっくりとした足取りで深まりながら、最適な時期に突如として姿を表す。
今の私の関心の根源は、十年前にすでにあったのだ。十年前のあの日と今日はつながっていたのである。
それは目には見えないような一筋の光のようであり、道であるように思えて仕方ない。人生を歩んでいくというのは、過去・現在・未来を一つの光として捉え、その光が照らす道の上を歩いていくことに他ならないのではないだろうか。2017/4/26