早朝に日記を二つほど書き留めた後に、朝食の果物を食べた。ソファに腰掛けながら、ぼんやりと壁にかかった絵画を眺めていると、先ほどの日記が自分に強く作用しているのを感じた。
何かが書き足りなかったのか、それとも新たなものが内側から湧き上がってきたのか、再び日記に書き留めておきたいことがあった。それは、米国の思想家ラルフ・ワルド・エマーソンが残した「個人の無限性」と私が人間の発達に関心を持ったそもそものきっかけとの関係性についてである。
振り返ってみると、私が現在の関心領域を探究し始めたのは、今から七年前になる。当時は、経営コンサルティングファームで働いていたため、本格的な探究を始めたのは、退職後の渡米以降となる。
ただし、七年前の段階で、私は人間の能力の発達可能性について、極めて強い興味を持っていた。その興味を刺激したのは、トランスパーソナル心理学という学問領域であった。
この学問領域は、直接的ではないにせよ、私が現在探究している知性発達科学とも関係している。トランスパーソナル心理学に興味を持った当時の私は、人間の能力はどれほどまでに開拓可能なのだろうか、という素朴なテーマに対して強い関心があった。
その後しばらくその関心テーマを探究し、その延長線上に構造的発達心理学があった。構造的発達心理学の中に存在する無数の段階モデルにおいて、その高次元の領域は、常にトランスパーソナル心理学の領域であると言っても過言ではない。
米国に渡ってからの私は、様々な発達理論を学び、特にそれらの段階モデルで主張される高次元の発達現象に対して、今から思うと奇妙なほどに取り憑かれていた。ある意味、当時の私は、高次元の発達現象の探究に帰依していたかのようである。
高次元の発達現象に私が帰依し、それらの現象が私を憑依するという関係性は長く続いた。しかしながら、ある時からその関係性が途絶えたのだ。
そのきっかけについては、定かではない。とにかく、人間の発達が無限になし得るものだという盲目的な発想から脱却したのは、その時であった。
確かに、人間の能力の成長には終わりがなく、発達の可能性は無限に残されている。だが、それらの事柄が直ちに人間の無限の発達を意味しないことを私は知ってしまったのだ。
人間の発達とは非常に不可解だ。トランスパーソナル心理学や構造的発達心理学が提唱する高次元の発達現象だけに目を奪われていると、人間は無限に成長するものだという安易な発想に絡め取られてしまう。
説明が非常に難しいのだが、人間の発達は、無限に成し遂げられる可能性を持った有限なものなのだ、と私は理解するようになった。トランスパーソナル心理学や構造的発達心理学に熱を上げていた時の私は、人間の発達の限界とそれが不可避にもつ有限性について盲目だったように思う。
当時の私は、人間の能力の発達が持つ無限性だけに着目をしており、一方、今の私は、無限性を強調するというよりも、有限性の方を尊重しているのだ。こうした考え方の変遷を辿って、今の私がいるように思う。
米国の思想家であるラルフ・ワルド・エマーソンに対して、最近の私が絵も言わぬ関心を示していることを書き留めていたように思う。彼の信条であった、「個人の無限性」というのは、決して能力の無限の成長を意味するのではない。
人間の内側には、無限なものが別に存在するのだ。内的世界そのものが無限に、そして永続的に存在し続けるのであり、その世界の内側の現象は無限に発達するような様相を私たちに提示するが、それが個人の無限性を指すのではない。
発達するしないに関わらず、内的世界の存在そのものが個人の無限性を表すのである。それらを混同していたのが以前の私であった。
私は一生涯をかけて、人間の発達現象を探究することになるのだろうが、見ているのはもはや無限の成長や発達などではない。そのようなものから脱却して、個人の永続性と無限性という観点から、有限な人間の発達を見つめていくのだ。
朝食の果物、壁に飾られた絵画作品は、そのような洞察を私にもたらしてくれた。早朝に書き留めていた日記で書き足りなかったことが、今ようやく完全に形となって姿を現したようだった。
無限な世界の中で、絶えず有限な世界を捉えたい。今日という一日が、無限の世界の中で有限な輝きを放つことができるように、今日という日を過ごしたい。2017/4/19