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957. 日記と個人の無限性


昨日、「成人発達とキャリアディベロップメント」という産業組織心理学のクラスに参加するためにキャンパスに向かって歩いていると、ふと自分が毎日書き残している日記の量に考えが及んだ。

歩きながら計算してみると、一日に平均して四千字ほどの日記を書き残していることがわかった。単純な計算だと、一ヶ月あたりに書籍一冊ほどの日記を書き留めていることになる。

三年間オランダで生活する間、この習慣を継続していくと、書籍40冊弱に及ぶ四百万字を越す日記を書き残すことになるかもしれない。だが、それでも分量としては全く足りないというのが正直なところだ。全くもって書き足りないのである。

早朝の静けさの中で、キャンパスに向かう一歩一歩の歩みに呼応するかのように、私の内側でそのような思いが徐々に膨れあがっていった。どうやらまだ、私の内側には、言葉をせき止めるような安全弁が備わっているようなのだ。

確かに、その安全弁が外れてしまったら、本当に日記を書くだけで一日が終わってしまうかもしれない。それぐらいに、今の私の内側には、言葉の形を待つものたちが無数に存在しているのだ。

無限の空間の中にある内側の思考や感覚が、外側の世界に誕生することを今か今かと待っているようなのだ。私が日記という形式のみならず、作曲という形式で内側の現象を外側に表現していこうと思ったことは、それと大きな関係があるだろう。

安全弁は安全弁として内側に存在し続けたとしても、その種類と質そのものが変容することを望む。日記にせよ作曲にせよ、それらの表現活動こそが安全弁なのではないかとふと思った。

内側の世界と外側の世界を架橋するものは、私の言葉であり音なのかもしれない。そうであれば、安全弁を外すというのは間違った行為であり、やはり安全弁の種類と質を変容させていく必要があるのだろう。

内側の無限の空間の中で外側に誕生しようとすることを望むものに対して、安全弁を外すのではなく、言葉と音という安全弁を通して外側に送り届ける必要があるのだ。今の私が持っている安全弁は、言葉をせき止めているというよりも、それそのものが言葉である以上、せき止められていたものはやはり内側の思考や感覚だったのだ。

また、安全弁そのものを変容させるというのは、私自身の言葉を変容させていくことに他ならない。絶えず言葉を練磨し、彫琢し続けるという課題に私はこれからも向き合い続けていく必要があるだろう。

絶えず内側の現象に形を与えたいのであれば、自らの言葉を鍛錬するしか方法はない。言葉を鍛錬する道は、やはり自分の言葉を書き続けるという実践の中に存在するのだと思う。

私の言葉が変容し、安全弁が変容するまで自分の言葉を書き続けていく必要があるだろう。そして、こうした営みは一生涯にわたって続くのだと覚悟している。

その覚悟は否定的なものではなく、非常に肯定的なものである。ラルフ・ワルド・エマーソンが述べた「個人の無限性」に気づくというのは、そうした覚悟を伴うものなのかもしれない。

私の内側に、空間のない空間が無限に広がっているだけではなく、そこには外側の世界に生まれ出て光を浴びることを望んでいる無限の現象が存在するのだ。この気づきは、私という一人の人間の無限性と密接に関係しているように思えて仕方ない。

日記を書けば書くほど、個人の無限性に気づき、それが本当に無限で始まりも終わりもないものだということに気づく。

始まりも終わりもないものに言葉を与え続けることは、荒唐無稽に思われるかもしれないが、それをしないでは済まされない性質が、人間には内在的に備わっているのではないだろうか。2017/4/19

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