書斎の中で静かに鳴り響く音楽が、意識の流れのように流れていく。窓の外に見える流れゆく雲が、意識の流れのように流れていく。
流れゆく音楽や雲と同様に、私の内側の主観的な思考や感覚も絶えず流れる運動をやめようとはしない。心理学者のウィリアム・ジェイムズが指摘したように、私たちの内側には絶えずこうした流れが存在している。
時に私は、そうした流れを外から眺めるのではなく、流れの中に足をつけていることがある。端的に言えば、主観的な思考や感覚の流れそのものと一体化するような現象を時折体験するのだ。
日常の意識において、主観的な思考や感覚の流れを眺めると、それは非常に慌ただしく流れ去っていくもののように思える。私たちの意識の中には、動きを止めることのない思考やイメージ、そして感情が渦巻いているのだ。
それらの流れを客観的に眺めるのではなく、そうした流れそのものと同一化してみると、面白いことに気づく。外側から眺めた慌ただしさが嘘のように、そこには静けさが広がっているのだ。
流れの表層は常に激しい動きを見せているが、流れの深層は常に静寂だ。私は、内側の思考や感覚が一連の流れを持っていることが、アンリ・ベルグソンが提唱する「持続」なのだと思い込んでいた。
しかし、ベルグソンが真に伝えたかった持続感とは、主観的な思考や感情の表層の流れではなく、それらの深層にある流れのない流れのことなのではないかと思ったのだ。ここのところ、無意識的に「静けさ」や「静寂」という言葉を日記で用いていることにふと気づいた。
思考や感覚というものは、確かに内側の流れなのだが、そうした流れを生み出す流れがあることを見逃してはならない。流れに同一化するというのは、表層的な流れと一体化することではなく、そうした流れを生み出している深層的な流れと結合することを意味する。 そのようなことを考えていると、書斎の窓から見える景色が様相を変えた。先ほどまで見えていた雲がどこかに消え去り、別の雲が窓枠から見える空を右から左に流れていくのが見える。
雲が激しく流れ過ぎようが、静かに流れ過ぎようが、雲の向こう側にある空はいつも静かだ。そこには流れのない流れが常にある。
今から、数日間の食料を購入するために近くのスーパーに行き、帰宅後からは再び自分の仕事に着手したい。流れのない流れの中で、絶えず自分の仕事を進めたいと思うのだ。2017/4/15