オーストリアからフローニンゲンに戻ってきてから、起床直後に10分ほど体を動かす際に聴く音楽が変わった。旅行中においても、その他の朝の習慣的な実践ができなくても、身体を活性化させることだけは行っていた。
精神的な実践よりも先に、必ず身体的な実践がなければならないと私は思っている。そのような考え方から、ウィーンのホテルでも、ザルツブルグのホテルでも、起床直後に必ず時間をとって身体を目覚めさせる実践から一日を始めていた。
その際に聴くようになったのは、モーツァルトが残した透き通るような交響曲だった。これまでの私は、ピアノ曲を好む傾向があったのだが、最近になって再び交響曲の魅力に気づき始めた。
そうしたこともあって、モーツァルトが作曲した交響曲を聴きながら身体を動かすことが新たな習慣になりつつある。それらの交響曲は、全身の細胞を活性化させるような音の響きを持っており、思わず飛び跳ねたくなるような音の流れを持っている。
心身を活動的な状態に促すモーツァルトの交響曲を聴きながら身体を動かすことは、一日の始まりに無くてはならないものとなるだろう。 ウィーンに旅立つ前、オーストリア滞在中に経験について考えを深めることを自らに課していた。だが、オーストリア滞在中に事前に設定したその課題について向き合うことは全くなかった。
その理由の一つは、経験について考えること以上に重要な問いや体験がそこにあったということだろう。ウィーンに旅立つ前に書き留めておいたメモを読み返すと、「経験(experience)の接頭辞 “ex”は、「前」かつ「出る」という意味があり、それらが何を意味するのかを考える」ということが書き留められていた。
そういえば、旅の途中に書き留めていた、旅がもたらす自己回帰という現象は、どことなくメモに残されたテーマと関係しているように思えたのだ。今回の旅の経験を改めて振り返ると、経験には前の自分と繋がりながらもそれを超え出て行くという性質があるようなのだ。
まさに、旅は以前の自分を携えながら新たな土地に足を運ぶことであり、そこで経験されることは、それ以前の自分を超え出て行くことなのである。また、今日の朝一番に書き留めていた、知識体系が差異を生み出しながら絶えず発達していくということも、それらと密接に関係している。
それら全ての中に、「前」かつ「出る」という、経験が持つ二つの特徴が色濃く現れていることに気づく。経験には、さらに興味深い特徴がある。
それは、以前の状態から超え出て行くだけではなく、超え出た瞬間の自己は再び新たな「前」の状態になるということだ。ダイナミックシステム理論の観点を用いれば、それは「反復」という現象だと言い換えることができるだろう。
つまり、経験は、以前の状態から超え出て行くことを私たちに促しながらも、再び新たな「前」の状態に置き直す作用を持っているのだ。絶えず自己を超えていきながらも、絶えず自己に戻ってくるという自己回帰の体感は、まさにこういうことだったのだと腑に落ちた。
今の私は、もはや自己を超越することに対して何の迷いもない。絶えず自己を超越する道を歩むことは、絶えず自己に帰還する道を歩むことに等しいのだ。
だから、私はもはや何の躊躇もなく、超え出る限りの境地まで超え出ていきたいと強く思う。それこそが、自己の「最奧の最奧の最奥」に存在する人間本質に辿り着くことだと思うのだ。2017/4/12