再び読みに読み、書くに書く生活が始まるとなると、私は居ても立っても居られない歓喜に包まれる。ウィーン国際空港を出発し、オランダに向かう飛行機の窓からは、ドイツ上空を覆う分厚い雲が眼下に見えた。
これからどのような分厚い雲が自分を取り巻いたとしても、もはや私はそれらの雲を突き破ることができる。これは譲れぬ確信であり、ある種の覚悟と言えるかもしれない。
オーストリアへの旅行の前後において、もう一度私は外側の世界と内側の世界の双方が重要であることを確認した。物質的な外面世界を強調するのでも、精神的な内面世界を強調するのでもない。
両者はともに、このリアリティを構成するために無くてはならないものなのだ。両者の存在を等しく認め、両者を通じて生きることが大切なのであり、決して片方の極に向かって走ってはならない。
外側の世界には常に内側の世界が関与し、内側の世界には常に外側の世界が関与していることを忘れてはならない。そのようなことを最近改めて思う。
オーストリアで過ごした一週間は、私にとって何物にも代え難い体験となった。言葉が麻痺するほどの、存在が静かに震撼するほどの体験の渦に飲み込まれるような七日間だったように思う。
オーストリアへの旅行までの日々は、敬虔な念の中で規則正しく刻み込まれるような毎日であった。毎日の就寝前に、常に神妙な思いの中で一日を終えていたことを思い出す。
一日という一つの時間単位が一秒と変わらぬような速さと重さで過ぎ去っていくように感じられた。一方、オーストリアでの七日間は、振り返ってみればあっという間だったのかもしれないが、とても長く感じられるような時間密度を持っていた。
時間という現象は大変興味深く、それを超越した世界で生きる時、一日という単位が一瞬にも永遠にも感じられるのだ。いや、一日を構成する一秒一秒は、一瞬であるのと同時に、即永遠になるのだ。
ここに私は、永遠の中で生きる道を見出したと言っても大げさではないだろう。一粒の砂は無限であり得るのと同じように、一瞬の時間は永遠であり得るという真実を忘れてはいけない。
その真実を通じて生きなければならないのだ。ここに一人の人間が深く生きることの道が存在しているように思う。
ウィーンでシューベルト記念館に訪れた時、今の私と同じ年齢でこの世を去ったシューベルトに思いを馳せていた。記念館にひっそりと展示されていたシューベルトが掛けていた眼鏡を眺めながら、この偉大な作曲家が見出した永遠性を私も共有し始めたような気がしていた。
シューベルトと同じく若くしてこの世を去ったモーツァルトにしても同様だ。彼らはともに、短い期間で人生の幕を閉じたが、幕が閉じられる前に、永遠の世界に参入していたのだ。
人の一生の長さに実は大差などない。生きる時間の長さに大差がないのであれば、なぜ深く生きようとしないのか。深く生きることは永遠の世界に至る唯一の道であり、永遠の中で生きることだと思うのだ。
また、永遠の中で真に生きる時、過去に戻ろうとするような作為や未来に進もうとする作為も生まれてこないはずである。常に今というこの瞬間の中で生きることを通じて、日々が、そして一瞬が、常に永遠の相を帯びたものとなる。
確かに私たちは、永遠に生きることはできない。だが、永遠に生きることは不可能でも、永遠の中で生きることは可能なのだ。
毎日が、日々の一瞬が、常に永遠なものに触れていることを実感し始めた私は、なぜだかそのようなことを思うのだ。2017/4/10