幸いにも、ウィーン観光の二日目も天候に恵まれた。今日は随分と色んな場所を訪れた。
どこを訪れたのかを最初に明記しておくと、(1)ベートーヴェン記念館(ハイリゲンシュタットの遺書の家)、(2)シューベルト記念館、(3)シグムント・フロイト博物館、(4)ベートーヴェン記念館(パスクアラティハウス)の四箇所に足を運んだ。なるべく時系列に沿いながら、今日の一日を振り返っておきたい。 そもそも今日は、シューベルト記念館とベートーヴェン記念館(パスクアラティハウス)を午前中に訪れ、午後からアルベルティーナ美術館でゆっくりと時間を過ごそうと思っていた。しかし、昨日訪れたモーツァルト記念館で入手した音楽マップを眺めてみると、私が足を運ぼうと思っていたベートーヴェン記念館以外にも、ベートーヴェンに関する記念館があることに気づいたのだ。
というのも、ベートーヴェンは引っ越しの回数が多かったことでも有名であり、その音楽マップに記載があるものだけでも、合計で三箇所のベートーヴェン記念館がウィーンにある。中でも、本日最初に訪れた記念館は、ベートーヴェンが二人の弟宛に遺書を書き残した場所で知られている。
当時32歳であったベートーヴェンは、難聴が悪化し、日を追うごとに耳が聞こえなくなっていった。作曲家として聴覚を失うことに対し、大きな絶望感を抱き、難聴の悪化によって他者を避けるようになったベートーヴェンは孤独感に苛まれていた。
その時、二人の弟に向けて遺書を執筆していたのだ。この遺書は結局ベートーヴェンの死後に発見されたものなのだが、それほどまでにベートーヴェンは音楽家として生きること、人間として生きることに対して絶望感を抱いていたことがわかる。
昨夜、この記念館があることを知った私は、是非とも明日の早朝に真っ先に訪れたいという思いが湧き上がっていた。正直なところ、「この場所を訪れたい」という気持ちは正確ではなく、嘘である。
「この場所に絶対に行かなければならない」という言葉の方が、その時の私の気持ちを正確に描写している。それはまるで、巨大な磁力がもたらすような気持ちであった。
私が宿泊しているホテルからこの記念館までは、およそ七キロほどの距離があり、歩いていくと一時間半ほどの時間がかかることがわかった。時間も距離も私にとっては一切関係がなく、必ず歩いてその場所に辿り着くということを決心して昨夜就寝した。
今朝は六時に起床し、昨日のモーツァルト記念館での体験について簡単に日記を記した。その他に書きたいことが山ほどあったが、ベートーヴェン記念館に向かうための準備をしなければならなかった。
一時間半の歩きに備えて、ホテルの朝食をしっかり摂った。フローニンゲンでの普段の朝食は、果物しか摂らないのだが、今日はハムやチージ、そして卵料理など、たんぱく質が多く含まれるものを多く食べた。
朝食後、ホテルを出発し、ベートーヴェンが遺書を書き残した住居に向けて出発した。ウィーンの早朝は、思っていたほど寒くなく、歩くのにちょうど良い気温であった。
ウィーンの街並みを堪能しながら、私は目的地に向かって歩き続けた。私が歩いていた道は交通量が多く、それほど静かな通りではなかった。
ただし、大通りを横切る小さな通りはどれも、人通りがそれほど多くなく、静かな気配を放っていた。一時間ほど歩いてみると、徐々に辺りが静かな環境に変わっていくのがわかった。
すると、ちょうど私の右手に庭園が見えた。私は、ベートーヴェン記念館に向かうことだけを考えていたのだが、このまま歩いていくと、記念館が開館するよりも随分と早く到着してしまうと思ったため、この庭園に立ち寄ろうと思った。
そのように思わせたのは、記念館に到着するのが早すぎるというよりも、実は庭園の入口に掲げられていた「Setagaya Park」という名称にあった。こんなところに日本庭園があるとは思ってもみなかったため、私は少しばかり嬉しい気持ちになった。
庭園の入口に足を一歩踏み入れると、そこには日本を感じさせる和の世界が広がっていた。傾斜を持つこの庭園には、斜面の上の方から水が流れてきており、斜面の下の地点に池が作られていた。
池の周りには、斜面の上の方に咲く花々を写真で撮影する人たちが何人かいた。池を眺めながら、ここがウィーンであることを忘れさせてくれるような感覚に満たされていた。
池の周りを反時計回りに歩き始め、池に水を運んでくる渓流の上に架かっている橋に辿り着いた。渓流の流れる音に耳を澄ませていると、心が休まるという感覚をひとっ飛びにして、私の意識は一気に違う世界に引き込まれていた。
それは本当に禅的な世界の何物でもなかった。私と渓流の流れと音とが一体化するような感覚を超えて、そうした感覚が一切入り込む余地のない全体感の中に私はいた。
いや、私という存在はその全体感に他ならなかった。はたから見れば、私の肉体は渓流をつなぐ橋の上にあったはずだ。だが、私の意識は肉体にはなかった。
さらには、私の意識は渓流の流れや音の中にもなかった。私の意識は、一切の所在を持たない全体感に他ならなかったのだ。
私という存在が一つの全体になってからどれくらいの時間が経ったのだろうか。しばらく経つと、私は渓流の音に聞き入っている自分に気づいた。
その瞬間に、自分の意識が再び肉体に宿ったことを確認することができた。日本庭園は私にとって、瞑想をする場にふさわしいというよりも、私が瞑想になる場にふさわしいのだと思った。そのようなことを思いながら庭園を一周し、出口に向かった。
その庭園には、日本の春を象徴する花々が咲き誇っており、小鳥が地面をよちよちと歩いていた。庭園を後にした私は、ベートーヴェン記念館に向けて再び歩き始めた。
記念館に近づくにつれ、ベートーヴェン自身も散歩を日課にしていたことをふと思い出した。今となっては路面電車の走るこの道を、当時のベートーヴェンも歩いていたのかと思うと、少しばかり感慨深い気持ちになった。
日を追うごとに耳が聞こえてなくなっていったベートーヴェンは、どのような気持ちでこの道を歩いていたのだろうか。この道を歩きながら、どのように絶望感と孤独感と向き合っていたのだろか。
作曲家として生きること、そして、人間として生きることの意味を、この道を歩きながらどのようにして見出していったのだろうか。そのようなことを思わずにはいられなかった。
私は、自分の使命だと思う仕事を遂行するために不可欠な感覚器官が喪失した状態についてずっと考えていた。そのような状態に自分が置かれたのであれば、私は仕事をする一人の人間として、どのような意味をどのように見出していくのだろうか、そして、そのようなことができるのだろうか、ということをずっと考え続けていた。
そうしたことを考えながら歩き続けていると、目的地の周辺に到着した。ある小道を右折した瞬間に、その記念館の位置を確認することができた。そこはとても小さな記念館だった。
入り口のある二階に上り、記念館はその二階にある二つの小さな部屋だけで構成されていた。私はそこに所蔵されている一つ一つの資料を丹念に見ていた。
二つ目の部屋に足を踏み入れた時、部屋の窓から見える景色に視線が釘付けになった。聴覚を失いつつあったベートーヴェンは、この窓からどのようなことを思いながら景色を見つめていたのだろうか。
その部屋に飾られていた一つの絵画作品は、この部屋にピアノが置かれ、ベートーヴェンはここで作曲を行っていたことを物語っていた。そして、その絵は、月の光がこの部屋に差し込んでいる様子を描き出していた。
ベートーヴェンは、差し込む月の光に対して、自分自身の内面の光を見つけることができたのだろうか。おそらく、ベートーヴェンにはそれができたのだろうと信じたい。
難聴がもたらした絶望感とそれがもたらした孤独感。それらを超越するような内側の光を、ベートーヴェンはこの場所で発見したのだと思う。内側の光とは、人が見出しうる最も尊い意味の結晶体なのだ、と思わずにはいられなかった。2017/4/4