昨夜、就寝前に、書斎の電気を消そうと思った瞬間に本棚に目がいった。すると、辻邦生先生が書き残した旅行記の背表紙が、私の目に飛び込んできた。
私は、おもむろにその旅行記に手を伸ばした。これまで何度か、自分にとって日記を読むこと・書くことの持つ意味について書き留めていたように思う。
私は時折、何かのきっかけで辻先生や森有正先生が書き残した日記を手に取るようなことがある。昨夜もまさにそのような出来事だった。
いつもであれば、辻先生や森先生の読みかけの日記を手に取り、その続きから読み始める。しかし、昨夜はなぜだか、これまでじっくりと読んだことのなかった二冊の日記に手が伸びたのだ。
それは、『詩への旅 詩からの旅』『時の終わりへの旅』という二冊の旅行記だった。私がこれまで熱心に読み進めていた辻先生の日記は、『パリの手記』という全五巻にわたる作品だ。
全五巻に及ぶそれらの一連の日記には、辻先生が初めてパリに渡り、小説家としての活動の意味を掴むためのプロセスが克明に記されている。昨夜私が手に取ったのは、『パリの手記』からおよそ十年後に執筆された旅行記だった。
私はちょうど明日からオーストリアへの小旅行に出かけることになっている。旅に出かける直前に、偶然ながら辻先生の旅行記を手に取ったのは何かの必然だろう。辻先生の旅行記を紐解いてみると、日記という文体でしか伝えられないことが伝わってくるような感覚に襲われた。
日記には、ノンフィクションとフィクションが入り混じり、書き手の実存性や思想が滲み出てくるような独特な特徴がある。私も辻先生と同様に、書くことに対する抑えがたい衝動を常に持っており、書くことを通じてしかものを考えられない特性を持っているように思う。
辻先生がまさに「書きながら考える」ことを通じて日々を過ごしていたのと同様に、私も「書きながら考え、考えながら書き、書きながら生きる」ということを継続させていきたいと強く思う。明日からのオーストリアへの小旅行の最中も、ぜひとも日記を書くことを継続させたいと思う。
ただし、単純にウィーンやザルツブルグに関する事実を記すのではなく、私がその地で何を考え、何を感じたのかという内面の機微を書き留めておくことが大事だ。旅先でしか得られない思考・感覚・感動などを自分の言葉として書き残しておくのだ。
新たな土地で自分の内面にもたらされる促しに応じるように、呼びかけに応じて発せられる内面の声に耳を傾けたい。その声を、私は自分の言葉として書き記しておきたいと思うのだ。2017/4/2