
昨夜は夜中に一度目を覚ますことがあったが、総じて睡眠の質は高かったように思う。昨夜の夢の中でも空を飛ぶというシンボルが現れた。
今回は、遥か彼方の上空を飛行するのではなく、電信柱の電線の少し上を飛ぶぐらいの高さであった。様々な記憶の断片が作り出した夢の中の街の上を飛んでいると、街の駅に吸い込まれるような形で駅構内に入っていった。
あるエスカレーターに向かって低空飛行を続けていると、下りのエスカレーターの角度は非常に急であり、下に降りていく合間合間に算数の問題に答えることが義務付けられていた。複雑な数式が絡むような数学の問題ではなく、数字の組み合わせから回答をひねり出すような算数の問題が目の前に現れたのだ。
エスカレーターを飛行しながら降りる私の前後に、これらの問題の出題者らしき人物がいた。数字だけが目の前に現れ、これが何を意味するのか、何を回答させようとしているのか全くわからないまま、五題ほどの問題が流れるように通り過ぎて行った。
私はそれらの問題に回答することができず、エスカレーターの一番下に到着した。意味のわからない数字の出現に対して少しばかり困惑していた私に対して、出題者らしき二人の人物曰く、これは数字処理に関する資格試験であり、先ほど出現した問題に答えられなくてもそれほど落胆する必要はない、とのことであった。
同時に、それらの問題に答えられなかったことは、逆に私にとってちょうど良いハンデであり、これからの問題で挽回してほしい、というようなことも述べていた。そのような夢を見る形で、今朝の起床を迎えた。 夢の余韻を感じながら、昨夜の就寝前に考えていたテーマについてもう一度考えを巡らせていた。昨夜は夢見の意識に参入する前に、死という現象について考えを巡らせていた。就寝前の静寂な意識状態は非常に不思議なもので、覚醒時の線形的な論理思考ではなく、より直感的かつ本質を静かにえぐり出すような思考を働かせる。
死という現象について、論理的にあれこれ考えるのではなく、死という現象の持つ意味を体感として捉えるような思考が働いていた。それは確かに思考なのだが、全身でその現象の意味を感じ取るような類いの思考方法であった。
そうした思考を働かせた結果として、死という現象が持つ本質にまた一歩近づけたような確信があった。だが、起床してみてその確信に言葉を当てようとすると、適切な言葉が見つからない。
やはり、起床後から動き始める覚醒意識の思考をもとにその気づきを捉えようとすると、言葉足らずに陥ってしまう。それでも、昨夜の体感を少し思い出しながら、気づきを書き留めておきたい。
端的に述べると、死というのは、寝ることや起きることと同様に、それは一つの体験に過ぎないのではないか、というものであった。ただし、その一つの体験を経た後に、再び体験前と同様の意識を持続させることが可能なのかは定かではない。
夢見の意識に入り込む前に、仮にこのまま目覚めぬ形で意識が消失したとしても、それは悲嘆することでも驚嘆することでもない、という静かな思いが込み上げてきた。死というのは、とても静かな体験であり、私たちにとって就寝と起床と同様に極めて近しいものなのだ、という気づきに私は浸っていた。
実際に、物理的な身体は残しながらも、覚醒意識が完全に消失している夢を見ない深い睡眠状態というのは、死という現象と何ら変わることがないのではないかと思ったのだ。そのように考えると、夢を見ない深い睡眠状態に参入するというのは、死という現象を体験する準備なのだと実感した。
死に関して昨夜考えていたことを言葉にしていると、その時と同様の静寂な心持ちになった。同時に、昨夜掴んだ断片が適切な言葉にならないことに対して、もどかしさもありながら、やはり何かを掴んでいた、もしくは何かに触れていたという感覚がまだ自分の内側に残っている。
今朝もフローニンゲンの街はとても静かだ。2017/4/1