昨夜見ていた夢を振り返っていると、そういえば、もう一つ印象的な体験をしたことを思い出した。文章を書くことに関する夢の章がひと段落すると、また別の章に夢が移っていった。
それは、空を飛ぶことに関する夢だ。これまでも日記の中で、夢に関することを書き留め、その中でも、空を飛ぶことに関するものが幾つかあったように思う。
欧州で生活を始めてから、空を飛ぶ高度が高くなっているという傾向があることに気づく。昨夜の夢もその傾向を象徴していた。
私は、重層的に重なり合う、不思議な土地を歩いていた。それはまるで巨大な迷路であり、一つ一つの土地が一つの迷路としての性格を持ちながら、それらの土地が階層構造を成していたのだ。
二人の友人を含め、三人でこの土地を歩いていると、一人の友人がどんどん先に進み出し、いつの間にか姿が見えなくなった。隣にいた友人から、先に行ってしまった友人がどこにいるのかを見つけてほしいと依頼を受けた。
私も先に行ってしまった友人の行方が気になっていたため、空を飛んで、無数の階層構造を持つこの迷路を上から眺めることによって、その友人の場所を特定しようとした。空に舞い、ある程度の高度に達すると、先に行ってしまった友人がどこを歩いているのかがわかった。
それを確認すると、それらの階層構造を超えて、全てを俯瞰的に眺められる場所にまで高度を上げて飛んでいたのだ。地上の全てが俯瞰的に眺められる地点に達すると、得体の知れない恐怖感が自分を襲った。
こうした恐怖感は、空を飛ぶことに関するこれまでの夢にも共通して現れるものだった。今回の夢においても、絵も言えぬ恐怖感が私を包んでいた。
その恐怖感を生み出している要因は、幾つかのことが考えられるだろう。とりわけ、昨日の夢において判明したのは、結局のところ、そうした高度に達した後に、自分がどのように地上に降りればいいのかという方法がわかっていないということだった。
つまり、高い地点にまで飛ぶことが可能になっていながらも、降り方に関する方法を自分が習得していないことに気づかされたのだ。極めて高い地点を飛んでいた私は、気づいた時には地上にいた。
地上に降り立った後、外国人の友人の一人と出くわした。すると突然その友人は、空を飛ぶ前に、どの高度を飛行し、どれだけの距離を飛ぶのかという飛行時間を最初に計算していないから自分で降りることができないのだ、ということを指摘した。
その指摘を耳にした時、非常に納得するものがあったのは確かだ。これまで飛行する時は、いつも後先を考えずに空に乗り出していたことを思い出した。そのような不思議な夢を昨夜見た。 この夢には、様々な教示が含まれている。その一つとして、客観的に世界を眺めることの怖さだろう。
俯瞰的に世界を見ること、つまり視座を上げることの極限に達すると、それは得体の知れない恐怖を引き起こすのだ。世間一般において、客観的に対象を捉え、現象を俯瞰的に眺めることや、視座を高く持つことは礼賛される傾向にある。
だが、それらを究極的な次元の中で行うことは、何か危険なものを内包しているような気がしてならない。私が夢の中で感じていた恐怖は、これ以上高度を上げ、極限的な俯瞰状態に到達すると、地上が一切見えなくなるということと関係していた。
同時に、地上がもはや見えないところで生きるということは、人間としてのアイデンティティが大きく揺さぶられることでもあった。要するに、視座の究極的な地点のその一歩先は、人間が足を踏み入れてはなならないような場所のように思え、一度でもそこに足を踏み入れると、もはや自分が人間ではなくなってしまうような感覚があったのだ。
客観的・俯瞰的に世界を眺める能力を鍛えることに対して、私が手放しにそれを推奨することができないのは、その能力の極致には、そうした事態が待っているからだと思う。2017/3/31