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890. 書くことの意味と真の仕事について


欧州での生活を始めてから、気づけば八ヶ月が過ぎた。オランダには合計で三年ほど滞在する予定であるため、まだ道の半分にも至っていない。

さらに、今後の自分の人生を考えた際に、欧州のどこかの国でしばらくの期間落ち着く可能性もなくはない。そのように考えると、私はまだたった八ヶ月しか欧州で生活をしていないのだ。

だが、この八ヶ月が私にもたらす意味というのは、今後の人生を左右するほどの重みを持っていたように思う。自分の存在が凝縮され、そこから一気に展開するような感覚をもたらしたのは、欧州での生活によるところが大きい。

そして何よりも、私の中で、書くことの意味を生まれて初めて、存在の根底からえぐり掴めたことは重大な出来事だったように思う。書くことによって初めて、内面世界で諸々の事柄が体系として構築されていくことを学んだのだ。

逆に言えば、日々の経験や思念という内側の現象を書くという行為を通じて形にしなければ、それは一切の体系を成しえないということを学んだのだ。そして、内側の体系とは、極めて個人的なものでありながらも、それは必ずある地点を通過すると、普遍的なものに至るということを存在の根底から知ったのだ。

日々絶えず何かを書かなければ生きていけないという状態に至るまで、私にとって、文章を書かないという悶々とした日々を過ごす期間が必要であった。それは長かったとも言えるし、短かったとも言える期間だ。

今はそうした迷いの期間を通り抜け、書くことが持つ意味の中で生活を形作っていると言える。 今日は午後の仕事がひと段落し、久しぶりに一時間ほど和書を読みたいと思った。そこで手に取ったのは、辻邦生先生の『パリの手記V:空そして永遠』だった。

現代社会を見渡してみたときに、自分が同志と思えるような存在はほとんどいない。その点において、少しばかり物寂しいような気持ちになる。ある意味、それは孤独感のようなものかのしれない。

だが、すでにこの世を去った人たちの中には、同志として私を励ましてくれるような存在がいるのは間違いない。その一人は、間違いなく辻邦生先生だろう。

辻先生の日記を読みながら、お互いの探究領域は表面上は全く異なれど、究極的な観点からすれば、両者の探究領域は重なっていることが手に取るようにわかる。同時に、辻先生もパリでの生活という欧州で生きることを通じて、自身の活動や存在意義をはらわたから掴み取っていった様子が日記から滲み出している。

仮に現代社会において同志と呼べる存在がいなくても、私が日々の仕事に励むことができているのは、辻先生をはじめとした、同じ志を持つ求道者の存在によるところが大きい。辻先生の日記を少しばかり読んだところで、ふとまた別のことを考えていた。

何の脈略もなく、私は、自分の生命時間と生命力を浪費するために生まれてきたわけではない、という考えに捕まっていた。私は、二十代の半ばに会社を退職し、無職の状態で米国に渡って以降、生活のための資金を得るために生命時間と生命力を浪費することがどれほどまでに馬鹿げたことなのかを知るようになった。

この考えは、今も変わらずに私の中にあり続けている。生きるために働くのではなく、生きるための意味を絶えず掴み取っていくために働きたいと強く思う。

二度と自分の生命時間と生命力を無駄にするような形で働きたくはないと思う。真の仕事というのは、私たちの生命時間と生命力を豊穣なものにしてくれるのであり、それは決して生命時間と生命力を奪うようなものではないはずなのだ。2017/3/29

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