今日からいよいよ、欧州はサマータイムに入った。早朝目覚めると、いつもと同じ時間に起きたという感覚がありながら、時間が一時間ずれていたのはそのためだ。
総じて先週は、気温がとても暖かかったが、今日はまだ寒さが感じられた。ちょうど昨日、行きつけのチーズ屋を訪れた帰りに、ノーダープラントソン公園の前を通った。
何気なく、公園の方に目をやると、池の周りの芝生から小さく綺麗な花が咲いていることに気づいた。この公園は、社会科学キャンパスに向かう時にいつも通るのだが、この間通った時には花が咲いていなかったことを考えると、この数日間で一気に花が開花したのだと思った。
日中、春を感じさせる暖かな太陽の光りが公園を包んでいた。その光がそれらの花に差し込み、美しさが引き立っているように見えた。
私はその場で立ち止まらざるをえなかった。静かに立ち止まり、咲いている花々を眺めていると、一気に意識がそれらの花に吸い込まれていった。
それはどのような種類の瞑想よりも強力な作用であった。一瞬のうちに、しかも完全に自己が溶解することが起こったのだ。
自然というのはつくづく偉大であり、とても不思議な力を持っていることに気づかされる。花々が引き起こした、自己が完全に溶解する感覚は、永遠に触れる感覚だと言っていいかもしれない。
自分という存在が消え去るこの感覚は、自分という存在が最初から存在していなかったと思わせるような類いのものであり、そのさらに奥深くにあるのは、自分の存在というのは永遠のものなのだという感覚だ。
つまり、自己が最初から存在などしていなったという表面的な感覚を超えた先にある、自己は永遠に不滅なのだという感覚に近い。アメリカの大学院に留学した際に、私は生まれて初めてこのような経験をすることになった。今でもその時の体験を覚えている。
その時は、自分が存在しているということを疑い、自分が自分だと思っていた存在が、実は単に自我や社会によって構成されたものだということに気づき、少々面食らったのを覚えている。そこからさらに、自己という存在は、そもそも存在していなかったのだという強烈な体験に見舞われることが多くなっていった。
しかし今になって思えば、それらは存在の永続性と不滅性を私に理解させるために不可欠な体験だったのだと思う。近所の公園に静かに、そして力強く咲く紫色の綺麗な花たちを見て、改めて自己の存在について考えさせられた。
この問題は、実はその先により深いテーマをはらんでいることを知っているが、そこに踏み入っていくのは、今の私には時期尚早である。自分の内面がより成熟し、その時が来たら、また再びその問題に取り組むことになるだろう。
チーズ屋の帰りに何気なく通りかかった公園での出来事は、私のこれまでの中心を新たなものにしてくれるかのような作用があった。ピアジェの言葉で言えば、それは「脱中心化」という現象であり、過去の中心から脱却し、同時に新たな中心を獲得する方向に向けて新たな歩みを踏み出したことを考えると、ウィルバーの言葉で言う「再中心化」が起こっていたように思える。
人間として生きる日々の生活には、不思議なことで満ち溢れている、とつくづく思わせてくれるような土曜日の午後だった。2017/3/26