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878. 書くことと内側の体系との関係


昨日は、終日にわたって論文を執筆していた。それは私の修士論文ではなく、「複雑性とタレントディベロップメント」のコースで課せられている共同論文である。

文書を書き続けるという一日を昨日過ごしたわけだが、今朝は特に疲労もなく、逆に清々しい目覚めであった。書くということに関して、精神的な筋力のようなものが構築されつつあるのを日々実感する。

何らかのコースで課せられる小さな論文であったとしても、それが修士論文のような論文であったとしても、査読付き論文であったとしても、それらと真剣に向き合えば、書く能力というのは徐々に獲得されていくのだと思う。

それは、他の能力の発達過程と全く同じである。欧州に来てからは、英語で学術論文を執筆する機会が増えただけではなく、日本語で日記を記す機会も増えた。

渡欧の前に自分自身にいい聞かせていたように、海外で生活をする際に、日本語を用いて日々の思念を書き留めておくことは、私の精神を安定させ、異国の地での生活をより充実したものにしてくれるというのは確かであった。

日々ことあるごとに、自分の中で湧き上がることを日本語で表出化させておくことは、精神衛生上、私の助けになっている。母国語にせよ英語にせよ、これからも文章を執筆し続けることによって、それらの言語を培う筋力を根底から鍛え上げたいと思う。今はまだ道半ばでしかない。

いや、それよりもむしろ、道の始点にようやく立ち始めたと言った方が正確かもしれない。文章を執筆すればするほどに、自分の内側で何かが育まれていくのを確かに感じるのだ。

それは知識や経験の体系と呼んでいいものだろう。自分の内側で知識や経験の体系が育まれれば育まれるほどに、文章の中身や外形が変化をしていく。

そして、そうした変化が巡り巡って、自分の知識や経験の体系をさらに変容させていく関係が見て取れる。文書を書くことと内面の成熟は、相互的な因果関係を結んでいるのだ。

それは決して一方向的なものではなく、双方向的なものである。ここにも、二つのシステムが動的な相互作用を生み出していることが見て取れる。私たちの内面世界は、本当にダイナミックなシステム関係の織物だとつくづく思う。

今日は午前中に、昨日取り掛かっていた共同論文の続きを執筆したいと思う。実際には、続きを執筆する前に、今回の研究で用いる二つのコーディングシステムの測定者間信頼性を算出しなければならない。

そのため昨夜、この研究に一緒に取り組んでいるインドネシア人のタタに、測定者間信頼性を算出するための仕事を一つ依頼していた。具体的には、80個ほどのサイコセラピストの発話の中から、ランダムに20個選び、作成したコーディングマニュアルに基づいて、それらの20個のデータの発話タイプを再評価するというものである。

私は、クライアントの発話の複雑性について同様のことを行うことになっている。タタからの回答が送られて来れば、私の方と合わせて、二つのコーディングシステムの測定者間信頼性をRを用いて算出したいと思う。

その作業と並行して、昨日執筆していた文章に若干の修正を加えたい。今朝起床した直後に、論文の中で、「交差再帰定量化解析」を用いた分析について述べる前に、シンクロナイゼーションという現象について少しばかり説明が必要だと思った。

そのため、その箇所に加筆をしたいと思う。それらがすべて終われば、論文の最後の箇所である、今回の発見事項に基づいたさらなる研究提案について文章を執筆したいと思う。

昨日ほどではないが、今日も静かに文章を執筆していく日になりそうだ。2017/3/26

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