昨夜は就寝前に、自分の内側で構築されつつある知識体系を、心の眼を通じて眺めるようなことを無意識的に行っていた。
現在、その足取りがいかに遅くとも、自分の知識空間の中に、発達科学を中心として、システム科学、ネットワーク科学、意識の形而上学に関する知識体系がシステムとして構築されつつあり、また、ネットワークとして緩やかに構成されているのを見てとることができた。
同時に、知識体系というようなものは、文脈に応じて緩やかに構成されているものであるがゆえに、それらの体系が寝室で仰向けになっている時には何ら発動されるものではないことも、非常に興味深いと思っていた。
昨日、 “Principles of systems science (2015)”の第五章を読んでいる時、一つのコラムを読みながら、ハッとさせられることがあった。それは新たな気づきというよりも、これまでの私の認識をさらに深めるようなものであった。
端的に述べると、現実世界の複雑な課題に対応するためには、その複雑性に対処できるだけの高度なメンタルモデルを構築することのできる能力が不可欠である、というものだった。ここで述べているメンタルモデルとは、まさに知識体系に他ならない。
研究者として発達現象の研究をする際には、その発達現象の複雑性を捉えられるだけのメンタルモデルを構築する能力が求められる。また、発達支援を行う実務家としては、クライアントが抱える複雑な問題を解決するために、その複雑性を捉えるだけの高度なメンタルモデルを構築できる能力が求められる。
このように考えると、知識社会で仕事を行い、他者に寄与するためには、高度なメンタルモデルを構築できる能力は、最低限の素養なのだと思う。今の私は、そうした最低限の条件を満たすために、日々精進していく必要がある。そのようなことを就寝前に思わされた。 今朝起床してみると、昨日の雨模様の空とは打って変わり、今日からは晴れの日が続くという嬉しい知らせがある。このところの変動の激しい天候を見ていると、季節がトランジションの時期にあることは確かだ。
昨日の夕食前から夕食後にかけて、過去の日記を読み返していた。じっくりと日記を読み返していたのではなく、ウェブサイト上の初期の頃の日記のフォントが非常に読みにくいものであることに気づいたたため、それを少しずつ修正していたのだ。
数年前の日記に目をやると、今の日記と比べて様々な変化があることに気づく。それは今述べたように、単純にフォントの変化であったり、文体の変化などだ。
また、その他にも文章を書いている私の中で、確かに何らかの変化が起こっていたことを示すトランジションの瞬間を垣間見たような気がした。こうしたトランジションの瞬間というのは、私たちの認識能力では全く予想することができず、さらには、意図的に起こすこともできない。
文体の変化を例にとると、ある時突如として、それが変化したのだ。これは発達科学とシステム科学の観点からすると、非常に興味深い現象だと思う。
システムがある階層構造から、別の階層構造に移行する際は、やはり非連続的なものであり、私たちには予想できないものとして生じる。だが、トランジションの瞬間が私たちの認識能力を超えていたとしても、ダイナミックシステムアプローチや非線形ダイナミクスの手法を用いれば、その瞬間を完全に正確とまではいかないが、ある程度それを予想することができてしまうことは面白い。
今の私もどこか、トランジションの期間にあるような気がしている。それを過ぎた先にどのような自分がいるのかは、今の私にはわからない。
だが、新たな季節の到来とともに、新たな自己が顕現するような予感がしている。2017/3/21