今日も昨日に引き続き、ひたすらに論文を書き続けていた。食べ物の消化が悪くなってしまうほどに、文章を書くことで頭が一杯であった。
書くことだけを続けていると、本当に身体の機能が書くという行為に引っ張られ、消化機能の働きを悪くするようなのだ。それを身をもって今体験している。だが、それでも私は書くことを止めない。
なぜなら、私は、書くことを通じてしか生きれないところまで行き着いてしまったからである。書くために生き続け、生きるために書き続けたいと思う。
まさに、シューベルトが短い人生を作曲に捧げたように、私も何かを捧げながら、自分が発見した自分の仕事に打ち込み続けたい。それが今の私の一番の望みである。 「複雑性とタレントディベロップメント」のコースの論文について作業を進め、それがひと段落ついたところで、今度は、「創造性と組織のイノベーション」のコースの論文執筆に取り掛かった。こちらは、四人で共同して一つの論文を執筆することが課題になっている。
この論文の執筆作業は、Google Documentを使いながら、ヴァーチャル上で進行させている。私がGoogle Documentを開いたとき、一緒にこの論文の執筆に取組んでいるドイツ人のマーヴィンがそこにいた。
マーヴィンにチャットで挨拶をし終えた後、私も作業に取り掛かった。先ほど私が文章を執筆していたのは、問題分析を基にし、先行研究を用いると、フローニンゲン大学がより創造的な研究を行えるようにするには、どのような実行案が考えられるかを提案する箇所である。
問題分析の結果から、フローニンゲン大学の研究者は——特に博士課程に在籍する研究者——、より高度な研究手法を習得できるコースやワークショップに参加する機会がほとんどないことがわかった。さらには、フローニンゲン大学の博士課程に在籍する若い研究者には、米国の大学院の博士課程のようにコースワークが課せられているわけではないため、自ら専門知識を深めていくことが要求されている。
それは、若手研究者の自主性や自律性を育む上では、非常に良いアプローチだと思われる。だが逆にそれは、深い専門知識を体系的に学ぶことを自ら行わなければならないことを意味している。
とりわけ博士課程に在籍する若い研究者にとって、今後の研究活動を豊かにするためにも、自らの専門領域の知識を体系的に学ぶことは不可欠であろう。体系的に何かを学ぶというのは意外と難しいことであり、それを独力で行おうとすると、知識の抜け漏れなどが生じやすい。
そうした事情を踏まえ、研究者の関心に応じた専門知識を体系的に学べるようなコースが必要だと思ったのだ。何より、創造性に関する先行研究が指摘しているように、領域固有の知識というのは、必ずしも創造性の発揮に結びつかないが、創造性を発揮するための前提条件なのだ。
つまり、ある特定の領域に関する専門知識は、その領域で創造性を発揮するための必要条件なのだ。ゆえに、専門領域を深く開拓することのできるコースが必要だという文章を執筆していた。
さらに、創造性というのは学習可能である、という点も見逃すことができない。実際に幾つかの先行研究を見てみると、創造性の開発に特化したトレーニングやワークショップを提供することによって、創造的な問題解決能力の向上や、創造性に対する自分のマインドセットの変化、創造性に対するモチベーションの変化、創造的なアイデアの創出能力の向上など、様々な効果が明らかになりつつある。
ただし、それらの研究では、研究対象が青年であることが多く、対象領域が科学者としての研究ではないために、それらの結果を安易に一般化することはできない。そうした注意点を盛り込みながら、文章を書き終えた。
改めて自分が書いてみた文章の内容を読み返してみると、専門領域に関する確固たる知識体系は、科学者として創造的な研究を行うための大前提になることを肝に銘じた。また、創造性というのも、一つの知性領域——あるいは、能力領域——であるため、それが学習可能であり、発達可能であるという点も改めて認識を強めておく必要がある。
先ほど執筆していた論文の該当箇所は、自分に向けたメッセージであるような気がしてならない。とにかく、読むこと書くこと生きることに関して、修練に修練を重ねるような日々を過ごしたい。2017/3/19