直近の二日間の自分の有り様をまだ少し振り返っている。確かに、それは仕事への没入のように思えたが、私が理想とするような没入の形とは幾分異なっているように思えた。
真の意味で対象と没入する際には、自己が完全に溶解し、時間を超えていくはずなのだ。そこには、もちろん時間感覚などが生まれる余地はなく、永遠の世界に身を置いているような感覚に包まれる。
そして、そうした没入感とともに対象と向き合うことができている場合には、疲労など感じようがないと思うのだ。永遠の世界の中で生きることに疲労が付きまとうというのは、おかしな話である。
対象に没入している時は、精神や身体のエネルギーを消費しているわけでは決してない。むしろ、その世界は精神や身体のエネルギーが溢れかえる場所であり、活動エネルギーや生命エネルギーの源泉だと言っていいだろう。
それゆえに、その世界でのありとあらゆる行為は、エネルギーを消費するのではなく、むしろエネルギーを享受するような体感が伴うのだ。そう考えてみると、直近の二日間の自分は、このような形で対象と真の意味で没入できていなかったことを知る。
端的に述べると、自分のエネルギーを消費していたような感覚がするのだ。それもかなり膨大な量のエネルギーである。
膨大な量のエネルギーを放出した結果として、昨日は幾分ばかり疲労を感じていたようだ。実際に、そうした疲労を回復させるために、昨夜の睡眠時間はいつもより長かった。
また、何かに駆り立てられ、追われるような夢を見たのも、この件と関係しているだろう。ただし、そうした膨大な量のエネルギーを外に吐き出したことによって、肯定的なことが起こったのも確かだ。
それはある意味、精神と身体のエネルギーの入れ替えのようなことが自分の中で起こり、内側の流れが浄化されたような感覚をもたらしたことだ。昨夜の夢の中における一つ象徴的な描写は、私の右肩に何かが取り憑いていることを父が指摘したことだ。
夢の中でそれを聞いた時、少しばかりぎょっとしたが、私の右肩に取り憑いているものは悪いものではなく、ただし、それを浄化する必要があるようだった。私は自分の左手を右肩に乗せ、それが浄化されるまで安静にしていた。
浄化が完了すると、私は新しい精神と身体を獲得したかのような感覚になった。その感覚を得た私は夢の中で、今から二年後に米国に戻る直前の年は、メキシコかアルゼンチンの片田舎で探究活動を開始しようとしていた。
夢の中の脳裏に地図が出現し、それらの活動拠点が光り、そこと米国との近さを示すような筋が見えた。そこで私は目を覚ました。
夢の中の最後の描写に関しては、それが実現することはなく、米国に戻る直前の年もフローニンゲンに留まることになるだろう。なぜなら、引越しが大変だからだ。
しかし、中南米のそれらの国やそこで活動するということが、何らかのシンボルとして私に意味をもたらしていたのは確かだろう。今はその意味を汲み取ることはできない。
起床後、自分の精神と身体がまた別の次元に足を踏み入れ始めていることを知った。嵐が過ぎ去った感覚がする。
春が近づくフローニンゲンの外はとても静かだ。2017/3/14