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800. 出版から一年が経って思うこと


『なぜ部下とうまくいかないのか:自他変革の発達心理学』を出版してから、もう少しで一年ほど経つ。今私が非常に残念に思うのは、日本の実践者の間で、成人発達理論に関する探究と応用が進んでいないことである。

私が本書に込めていた意図は、あくまでもこの書籍を入り口として、成人発達理論に関するさらなる探究と応用の土台が形成されていくことであった。一年という時間軸があまりにも短いことを考慮しなければならないが、私の意図は完全に失敗に終わっているように思う。

一体どれくらいの人が、入り口からその次のステップに向けて歩み出したのだろうか。具体的には、本書で紹介したロバート・キーガンの理論を入り口として、無数に存在する他の発達理論を自主的に学ぶことを、ほとんどの人はしていないのではないかと思えて仕方ない。

確かに、人間の発達を専門としない限り、専門書や論文を丹念に読むことはそれほど必要ないだろう。だが、仮にも発達理論を活用して何らかの実務活動に営もうとする者や、発達理論をより深く知ろうとする者にとって、なぜ単なる入り口でしかない本書や関連書籍——『なぜ人と組織はうまくいかないのか』『行動探究:個人・チーム・組織の変容をもたらすリーダーシップ』やケン・ウィルバーの翻訳書——にとどまり続けているのかが不思議でならない。

これらの書籍に記載されていることは、発達現象のごく一部でしかない。発達現象の複雑性や多様性を無視して、そのようなごくわずかな文献に頼ることは、発達理論を活用する実務や探究そのものの質を脆弱なものにさせる。 正直なところ、人間の知性や能力の発達を研究している者の中で、「意識の発達段階」という言葉は、死語になりつつある。また、ケン・ウィルバーの発達思想を母体としたインテグラルコミュニティーが用いる、特定の色での段階表記——オレンジやグリーン——や、「合理性段階」や「統合的段階(ビジョンロジック段階)」という呼び名、「慣習的段階」や「後慣習的段階」という呼び名を使っている研究者は、発達科学の世界において、もはや絶滅危惧種である。

確かに、それらの呼び名は、自我の発達領域や道徳性の発達領域に関するものであるため、自我や道徳性に関する研究を行っている者は、現在でもごく少数だがそれらの言葉を用いていることがある。ただし、それ以外の能力領域を説明する際には、そうした用語は妥当性が極めて低いのだ。

そして何より、そうした言葉で人間の発達段階を表現することは、過度な一般化であり、極めて危険ですらある。特に、企業社会や教育の分野でそれらの呼称を用いることは、実践者を含め、関係者に大きな誤解を与えかねない。

発達理論を実務に応用しようとする者にとって、そうした安易な呼称は避けなければならないし、現在日本で手に入る書籍を入り口として、他の発達理論を学んでいく必要が大いにあるだろう。

そうした先に、現在日本で広まりつつある発達理論を客体化することが初めて可能になり、「発達段階3」や「発達段階4」、「レッド」や「アンバー」、「神話性合理段階」や「相対主義的段階」、「前慣習的段階」や「慣習的段階」という呼称を用いて、人間の発達を過度に一般化する者たちの無知さを見抜くことにつながると思うのだ。

そうすることによって、徐々に発達理論が真の意味で多様な実務領域に貢献し始めるのではないかと思う。

音楽評論家の吉田秀和氏が、生前に書き残した評論の数は膨大な量にわたることを少し前に知った。吉田氏は、当時の日本人の発想の枠組みや生き方に対して問題意識を持ち、音楽評論を通じて、それらを変容させていく仕事に生涯を捧げていたことも知った。

吉田氏が亡くなる直前に、「自分が評論をこれだけ書いても、結局日本人は何も変わらなかった」という言葉を残したそうであり、それでも吉田氏が評論を死ぬまで書き続けた姿勢に、私は胸を打たれた。発達理論を取り巻く日本の現状が何ら進展を見せることがなかったとしても、私は書き続けたいと思う。

書き続けることの先にある意味を信じて、今日も自分の仕事に取り組みたい。2017/3/3

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