夕方の仕事がひと段落し、再び今日の午前中の出来事を振り返っていた。そういえば、サスキア・クネン先生とのミーティングの最後に話していた話題を、まだ書き留めていなかったことに気づいた。
それは非常に些細なことなのだが、科学論文を執筆する際に、同じデータに対して複数の論文を書くことが許容されているのかどうかを先生に確認した。というのも、どこかで一度、一つのデータセットに対して論文は一つ、というようなことを聞いていたからだ。
この曖昧な記憶に対して、大きな違和感を覚えていた。なぜなら、今回の私の研究のように、データを収集するのに非常に労力がかかることは頻繁に見受けられることだと思うし、また、得られたデータが非常に価値のあるものである場合、それに対して一つの角度から一本の論文しかかけないというのは、どうも納得がいかなかったからである。
一つの学術論文は、基本的に、一つのトピックに絞って書き進めて行くことになるため、そうした貴重なデータに対して一つの論文しか書くことが許されていないというのは、どうもおかしな話であると疑う自分がいたのだ。
クネン先生に確認したところ、やはりその情報は誤っているとのことである。一つのデータに対して、テーマは一つに絞ることが原則であるが、同じデータに対して、異なる角度から複数の論文を執筆していくことは可能であるとのことだ。
実際に、クネン先生も、青年期のアイデンティティの発達を研究する際に、被験者から膨大な量の日記を収集し、そのデータは質と量ともに貴重なものであったがゆえに、そのデータに対して八本ほどの論文を執筆したことがあるそうだ。
私の調査不足で、先生がそのような研究を過去にしているとは知らなかったが、同じデータセットに対して、異なる角度から複数の論文を執筆できるということを聞いて、少しばかり安堵感があった。
というのも、私も今回の自分の研究で用いるデータは質と量ともに貴重なものだと感じており、すでに自分の中にある研究テーマを考えると、最低でも三本ほどの論文が執筆できると思っていたからである。
まさに、現在取り組んでいる修士論文の中で、最低でも三つの査読付き論文に展開させることができるような種があるのだ。しかし、今回は修士論文であるという都合上、三つのテーマの規模を小さくし、三つのテーマが一つのテーマに沿うように執筆を進めている。
現在取り組んでいる研究の中で、三つの解析手法を適用しているのも、実はそのような意図があるからだ。正直なところ、今手元にあるデータに対して、様々な角度から研究をしたいと思っており、今年は必然的に執筆する論文の数が増えるであろう。
三月中に修士論文をほぼ完成の形に仕上げ、クネン先生やラルフ・コックス教授に依頼をし、四月から査読付き論文の執筆に向けて新たに動き始めたいと思う。これは論文の執筆のみならず、いかなる表現活動全般に当てはまると思うが、とにかく自分の作品を形として残すことが大事だ。
いつか作品を世に出そうと思っていても、そのいつかは往々にしてやってこないのだということを改めて肝に銘じたい。新たなプログラムが開始する今年の九月を迎えるまでに、具体的な計画とともに、自分の論文を世に送り出したいと思う。2017/2/27