今日は夕方から、元フローニンゲン大学教授ポール・ヴァン・ギアートの論文に目を通していた。数日前から取り掛かった、エスター・セレンの仕事を体系的に追っていくという試みに加え、ヴァン・ギアートの仕事を再度体系的に深く辿っておきたいという思いが日増しに高まっていた。
その一環として、先ほどヴァン・ギアートが20年以上も前に執筆した論文を読んでいたのだ。この論文は、感情の普遍性について扱っている。
この論文を読んで私が考えさせられたのは、感情が持つ連続性と非連続性についてである。私たちは基本的に、怒りの感情や楽しさの感情というように、概念的に分類した形で感情を頭で認識する。
こうした分類が可能なのは、感情が非連続的な性質を持つからである。だが、これは少し乱暴な説明かもしれない。
感情に対して名付けをする概念が、そもそも現象を切り分けるという性質を持っているため、感情が非連続性を持っているというよりも、概念によって感情が非連続的に切り分けられると言っていいのかもしれない。
そのように考えると、感情が本来持つであろう連続的な性質が浮かび上がってくる。感情というのは、私たちが考えるよりもずっと多彩なものなのかもしれない。
私たちが概念によって名付けることができる以上のものが、そこに含まれているような気がしてならないのだ。これは以前どこかで言及したかもしれないが、私が米国で生活をする際に頭を悩ませていたのは、自分が感じている感情を英語の中にある適切な言葉で表現することであった。
当時の私にとって、これは非常に厄介な課題であった。来る日も来る日も、今この瞬間に自分が感じてる感情を最も的確に捉えた言葉というのが見つからないのである。
自分の感情に合致する言葉を探すという作業は、延々と続く終わりのないもののように思えた。ある時ふと、大きなことに気づいた。
自分の感情に合致する言葉を英語空間の中で探そうにも、それは見つかるはずもないと思ったのだ。というのも、私には、例えば “graceful”や “indignant”という感情を、英語という言語空間の中で体験したことなど一度もなかったからである。
そもそもその言語空間の中で体験したことのない感情を、その言語空間の中の言葉を用いて表現することなど、到底不可能なのではないかと思ったのだ。仮に何らかの言葉で感情を表現したとしても、その感情の原体験がその言語空間の中にないのであるから、そこでは単なる概念が空中をさまよっているかのようであった。
ある言語空間の中での原体験がない場合、その言語空間内の言葉を用いて感情を表現することが原理上できないのであれば、一生私は英語空間の中において、言葉を通じた感情表現ができないことになってしまうと思った。
そうした事態は、私をひどく落胆させるものであった。そのような状況の中、私はそれでも手探りで自分の感情に当てはまる言葉を探す日々を過ごした。
出口の見えないトンネルを歩くようなことを愚直に続けていった結果、少しずつ光明が見え始めたのだ。母国語以外の言語を通じて、自分の感情を表現することは十分に可能であることが徐々にわかり始めたのだ。
そこから、私たちの感情には、言語を超えた普遍的な何かがあるのではないかと思うに至ったのだ。それは、人間の感情が持つ普遍性というものを身を持って体験した出来事であった。
感情の普遍性に触れることを促したのは、他でもなく、感情の連続性の中に飛び込み、その中で言葉を当てはめることを継続させるという、連続的な感情を非連続化させる絶え間ない試みだった。
ソムリエでもない限り、私たちは様々なワインの味や香り、そして色を見分けることができない。感情も全く同様であり、感情が持つ多様な機微に神経を研ぎ澄ませることを継続的に実践しない限り、感情が持つ多様な差異に気づくことはできないのだ。
感情は連続的なものでありながら、それを直ちに認めてしまうと、私たちは感情が持つ微妙な差異を見逃すことになり、その真に豊かな性質を掴むことはできなくなってしまうのだと思う。感情の豊かさを掴むためには、自分の感情にふさわしい言葉を徹底的に探す試みが不可欠だろう。
感情を非連続化させるというのは、そのような試みのことを指す。感情を言葉によって非連続的なものとして掴む実践を愚直に続けた結果として、私たちは感情が持つ連続的な豊潤さに触れることができるのだろう。
書斎の空間に、サティのピアノ曲が静かに鳴り響く。内側の深くに沈み込ませることを自然と促すような、とても瞑想的な曲である。
この曲がもたらす感情も、実際は様々な感情が連続的に連なった豊かな潤いを持つものに違いない。2017/2/26