明日から始まる新たな週は、大学全体が追試週間と位置付けているものである。この週には、通常の講義が行われることはない。
そのおかげで、月曜日に行われるサスキア・クネン教授とのミーティングや水曜日に行われるラルフ・コックス教授とのミーティングに向けて十分な準備をすることができる。また、他の曜日には、ある日本企業とのミーティングも入っているため、そうした準備に時間を充てるには、この追試週間は私にとってとても都合が良い。
追試に関して一つ思い出したことがある。以前、クネン先生と話をしていた時に、先生が担当する「複雑性と人間発達」のコースにおいて、受講生の半分が追試だったそうだ。米国の大学院に留学していた私にとって、修士課程や博士課程の者が追試を受けるというのは想像できないことである。
おそらく、日本においても状況は米国とほぼ同じであり、大学院に所属する者が追試を受けたり、単位を落としたりすることなどあまりないと思われる。クネン先生曰く、今年は受講生のうち、15%が追試を受けることになったそうだ。
特にオランダの上位校は、教育の質を高く維持するためにも、とりわけ単位取得のハードルを上げているのだと思う。これについては、私は文句はなく、むしろ歓迎すべきことだと思っている。
また、受講コースが終了するたびに、学生側からそのコースに対するフィードバックがあるのだが、その結果を見ると、学生側もシビアにフィードバックをしている。講義を担当する教授側と学生側との間に存在する適切な緊張関係が、この大学の教育の質を高いものにしているのだと思わずにはいられない。
大学院における教育の質について、私はほとんど文句はないのだが、学費に関してはなんとかならないものかと思う。もちろん、米国とオランダの一流校の大学院を比べると、確かにオランダの大学院の学費は、米国のそれの三分の一以下である。
そう考えると、オランダの大学院の学費そのものは高くない。ただし、オランダ人やEU圏内の学生とEU圏外の学生においては、大学院に限ってみると、10倍ほど金額が違う。
当然ながら、母国の学生を優遇し、EU圏から優秀な学生を獲得したいという理由は理解できるが、10倍ほど年間の学費が異なるというのは少しばかり気になるところだ。米国のたいていの大学院においては、留学生と米国人の学費は同じであるという平等性が保たれているという一方で、学費の金額が狂気染みたものであるという特徴がある——大学院のみならず、米国の学部における学費の高騰は以前から大きな社会問題になっている。 そのようなことを考えていると、少しばかり米国の大学院時代に関する記憶が蘇ってきた。サンフランシスコのゴールデンゲートパーク近くのスターバックでコーヒーを飲みながら、構造的発達心理学に関する論文を読んでいたあの日のことが懐かしく思い出された。
あの時は、ロバート・キーガン、オットー・ラスキー、スザンヌ・クック=グロイター、ザカリー・スタイン、セオ・ドーソンなどの論文を熱心に読んでいた頃だった。なぜこの記憶が蘇ってきたのかは全くわからない。
ただ、あの時の私は今と変わらず、人間の発達現象の探究に没頭していたのは確かだ。あの時から自分は大きく変わったように思う一方で、やはり変わらないものというのも確かにあるようだ。
普遍に向かうものがある一方で、不変のままのものがあるというのは、やはり人間発達の一つの真理なのだろう。 京都大学から来た学生が三月の初旬に日本に帰国するため、ささやかながら送別会を行うことにした。私がこの半年間の生活の中で、普遍に近づいたものと不変のままのものがあったように、彼の留学生活においても同様のことが起こっていたように思う。当日の送別会が今から楽しみだ。2017/2/26