昨日から連続した日だったように思えるような一日だった。同時に、昨日から非連続的な日だったように思えるような一日だった。
一昨日の就寝前に私の身に降りかかった、切断からの消滅と、消滅からの再生という体験について、また新しい意味を掴んだような気がした。これはちょうど、早朝の仕事に取りかかってすぐに訪れた。
早朝の仕事の開始とともに、ベートーヴェンの『告別』というピアノ曲を流した。すると、そういえばこの曲には、三つの楽章があり、それぞれには、何か自分を捉えて離さないような意味が込められたタイトルが付されていることに対して、以前から気になっていた。
それらは、最初の楽章から順番に、「告別」「不在」「再会」というものである。このタイトルが醸し出す妖気に引き込まれるような感覚を持ちながらも、その中に完全に入り込んでいないような、中途半端な感覚が私の中にあった。
そうした中途半端さから、当初はこれらのタイトルをそれぞれ、私が社会へ別れを告げ、私という存在が社会の中で不在となり、そこから何とか社会との再会を果たしたいという、自分の思いを象徴しているかのように思えた。
それらの意味はおそらくある程度正しいように思えるが、私がこの曲から得ていた感覚を十分に説明していないと思った。確かに、今私が向かわされている個としての究極点に辿り着くためには、ある種、社会との決別が不可欠であり、社会の中で不在の時期を過ごさなければならないように思える。
また、個としての究極点から普遍性に至り、そこで得られたものを社会に還元していくために、社会と再会することは極めて重要だと思っている。一人の人間が個というものを獲得し、小さな自己からの解放を通じて、再び社会の中で生きる状態に至るというのは、人間の発達プロセスの古典的な原理のようなものである。
今の私も一人の人間として、間違いなくそのプロセスの線上を確かに歩いているという実存的な実感がある。ただし、このプロセスを歩んでいるという実感と若干異なるものが、一昨日の就寝前に体験され、その体験がベートーヴェンの『告別』という曲に共鳴するものがあったのだ、と思うに至った。
以前の日記で書き留めていたのと同じように、一昨日も、完全にこの自己が認識世界から消滅するという体験とぶつかった。私が私だと思っている自己にまつわるありとあらゆる情報が、一瞬にして消え去る感覚であり、それは自己を構成する過去の全ての歴史が抹消されるような感覚である。
この感覚に包まれる時、そこには静寂しかない。あるいは、無しかないと言っても良いだろう。この状態がしばらく続くと、突如として我に帰るのである。
このような体験を一昨日もした。どうやら自我を司る発達プロセスにおいて、強固な自己を確立した後に待っているのは、自己との別れなのだと再認識させられた。
そして、自己との別れの後に、自己の不在が始まり、そこから再び自己に戻ってくるという、一連の微小な発達サイクルをその時に体験したのだと思わされた。とりわけ、自己が不在の無の境地から、帰還を果たし、小さな再創造が自分の中で起こっているという感覚を見逃すわけにはいかなかった。
この現象は、私にとって未だ謎が多いが、少しずつこの現象の意味が見え始めている。そして何より、この経験は確かに周期的に私に知覚されるものなのだが、奇妙なものでも珍しいものでもなく、実際は、いついかなる時においても、自分の中で密かに進行している現象なのだと思えてきたのだ。
自己への告別、自己の不在、自己との再会というのは、何もある特定の時に生じているのではなく、絶えず私の中で生じていることなのだ。この日記を書いている間にも生じていた現象であり、日記を書き終えた今この瞬間にも生じている現象なのだ。2017/2/25