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775. 笑いと音楽


昨日の夜は少し疲労感を抱えていたが、十分な睡眠のおかげで、今朝は再び気力に満ちた状態に戻ったように思う。気分や体調を含め、私たちは変動性に満ち溢れた存在だということを改めて知る。

一昨日に引き続き、昨夜も夢の中で何やら考えさせられることがあった。昨夜の夢の中では、笑いという現象と音楽が私たちにもたらす作用について考えていた。

夢の中で、ある出来事の説明がなぜ笑いを人々の中に引き起こすのかについて、個人の内面領域の観点と集合の内面領域の観点から説明している自分がいたのである。夢の中での自分の説明を詳細に覚えていないのだが、笑いというのは主観的な側面のみならず、たぶんに間主観的な側面を含んでいるということを述べていたように記憶している。

なぜ夢の中で自分が笑いについて熱心に説明をしていたのかは定かではないが、笑いについて考えさせる契機のようなものが昨日の出来事の中にあったように思う。

昨日参加した「創造性と組織のイノベーション」というコースを担当するエリク・リーツシェル教授の特徴を端的に述べると、創造性や組織のイノベーションに関する学術研究に造詣が深いというのは言うまでもなく、何よりもユーモアのセンスに溢れているのだ。

それも皮肉なユーモアではなく、自然と笑いが出ざるをえないような類いのユーモアなのだ。昨日のクラスも、リーツシェル教授は冒頭からユーモアに溢れる言葉を発していた。

昨日の日記で書き留めていたように、昨日は自分の内側の奥深くに留まっておきたいという気分であり、講義内容にはそれほど集中していなかったのであるが、リーツシェル教授のユーモアの生成方法にだけは比較的多くの注意を払っていたように思う。

リーツシェル教授が発するユーモアをよくよく観察してみると、一つには、あらかじめ意図的に仕込まれたユーモアがあるということに気づいた。これはリーツシェル教授が、講義資料を作成する過程で、講義内容に照らし合わせて事前にユーモアを考案しておくというものである。

もう一つには、即興的な形で生み出されるユーモアがあることに気づく。こちらは、刻一刻と変化する状況に適応する形で、ユーモアを発することが要求されるため、より柔軟性と適応力が必要とされるようなものだと思う。

即興的な形でユーモアが溢れるというのは、天性のものかもしれない。だが、ユーモアというのは先天的なものだけではなく、一つ目のユーモアの特徴のように、緻密な準備によって意図的に生み出せるものでもあるのだ。

教室内の反応や私の内側の反応を見る限りでは、意図的に生み出されたユーモアも、即興的に生み出されたユーモアも、どちらも質的に大きな差はなかったように思えた。そのため、私はユーモアの分類を超えて、ユーモアがどのように笑いの形となって私たちに届くのかについて考えていたのである。

あるいは、笑いのメカニズムや法則性について非常に気になっている自分が存在していたのである。もちろん、それらについて深く考えるようなことをしようと思っていたわけではなく、何となくそれらが気がかりな状態に自分はいたのだ。

そうした状態を引きずっていたがゆえに、夢の中で笑いというものが一つのテーマとして浮上してきたのかもしれない。 二つ目のテーマである、音楽が私たちにもたらす作用についても、このところ自分の中で何となく気になっていたものである。音楽には、ある特定の情感を引き起こし、さらには特定の心象イメージを喚起する作用があることは間違いないだろう。

実際に昨日も、内側に沈み込もうとするような気分の時に、エリック・サティのピアノ曲は、内側に沈み込む感情をさらに強化し、少しばかり不気味かつ神秘的な心象イメージを引き起こすことに気づいた。

そこからドビュッシーのピアノ曲に切り替えたところ、内側に沈み込む気分が幾分軽やかになり、より多様な色を伴った明るい印象イメージに変わったのである。人間の心は、一つのダイナミックシステムであり、激しい変動性を持っている。

絶えず環境や文脈と相互作用するこの開かれたシステムは、ある特定の情感や心象イメージを喚起する音楽によって、変幻自在に変化するということを目の当たりにしたように思う。今この瞬間にも、グレン・グールドが演奏するモーツァルトのピアノ曲が流れており、自分の心が何やら洗われるような気がしている。

今日もまた、音楽とともに日々を形作っていこうと思う。2017/2/24

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