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765. そこに向かうために


今日はとても暖かい一日であった。このような暖かさを感じると、春がやってくる日もあと少しだと実感させてくれる。

午前中の仕事が終わると、春を予感させる暖かさを感じながら、近くのノーダープラントソン公園へランニングに出かけた。ランニングから帰ってくると、昨日から考えていた言葉の問題について、再び少しばかり考えることを強いられた。

このように、毎日何かしらの日記を書き残していると、つくづくある言葉を使う必要がなくなるほどに、その言葉を紡ぎ出す必要があると思わされる。誰しも皆、関心テーマというものは異なっており、それは日々の変化に応じて移り変わるという性質を持っている一方で、そのテーマは変わらずに自分の内側で成熟の歩みを進めているという特徴も持っている。

後者に関して、一つのテーマに長らく留まり、そこからいったん離れ、再びそのテーマに戻ってきた時に、以前自分が用いていた言葉がもはや通用しなくなるような経験をしたことはないだろうか。仮に自分自身の内面の成熟が進行していたのであれば、再び同じテーマに戻ってきた時に、もはや以前の言葉を使うことなどできなくなると思うのだ。

なぜなら、新たに辿り着いた内面世界からそのテーマを眺めた時に、もはや以前とは異なる見方や感覚が生じ、それにふさわしい言葉というのは、新たな内面世界から生み出されるものだからである。そこではもはや、以前の内面世界から発せられた言葉を活用できるような事態ではなく、必然的に新たな言葉を生み出さざるをえないのだ。

今の私がこのように毎日何かしらの言葉を紡ぎ出しているのは、その言葉をもはや使う必要がないほどに、自分の内側にそれを刻印し、そこから離れようとしていることの表れかもしれない。そして、そこから再び同じテーマに戻ってくることを望みながら、新たな言葉を生み出す準備を日々行っているような気がしてならない。 こうした日々の足取りを見るにつけ、人間の発達について私が何かを語る資格など、まだ一切ないのだということを改めて感じさせられている。公共に資する形で人間の発達について語ることが許されるのは、人間の発達に関する自らの知識や経験が、普遍的な次元にまで昇華されてからだと思うのだ。

そこに到達していない段階で紡ぎ出される言葉は、常に余分な贅肉がつきまとっているかのように、小さな自己の残滓によって濁されたものなのだと思う。だが、それを承知で何かを語ろうとしなければ、一生何かを語ることなどできないのだということを知る。

以前、自己の未熟さを晒しながらでも、自分の言葉を絶えず紡ぎ出していくことの決意を表明していたように思う。本当にそれをしなければ、自分の仕事は小さな自己の内側で完結したものに成り果ててしまうだろう。

結果として、そうした仕事は、この世界に関与するという、人間がなす仕事の本質を骨抜きにしたような、無用の長物に過ぎないものになってしまうに違いない。そのような仕事に意味を見出すことができないのは私だけだろうか。

そのような生き方に意味を見出すことができないのは私だけだろうか。絶望的なまでに希望を持って自分の仕事がしたいという強い思いが湧き上がってくる。

同時に、絶望的なまでに希望を持って自分の人生を生きながら、世界に関与したいという思いも湧き上がってくる。これらの気持ちを抑えることなど、今の私には到底不可能な話である。2017/2/21

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