以前、私の上の階に日本人ピアニストが引っ越してきたことについて言及していたように思う。その方は、私よりも幾分年齢が若いのであるが、いつも感化されることがある。
先日、一度実際に演奏を聴かせていただく機会があり、今日もその方が通う音楽院にお邪魔させていただいた。その方は明日からルーマニアに向かい、今週中にそこで演奏会を行うとのことであった。
出発前日にもかかわらず、音楽院の練習室で、随分と長い時間音楽に関する話を含め、探究活動や表現活動の意義や本質について話をさせていただいた。当初は、ルーマニアでのコンサートで演奏される予定の曲を聴きに行くことを目的にしていたのだが、その曲を聴く前に、およそ三時間ほど話し込んでいた。
正直なところ、自分が渡欧直前から現在にかけて徐々に見え始めてきている内面世界の一端を、その方も眺めていることを嬉しく思った。同時に、私が彼女の年齢であった頃を思い返してみると、そのような内面世界の一端に気付きようがないほどに、自分は未成熟であったように思う。
どのように一つの経験と向き合ってきたかが、その人の内面の成熟を左右するというのは全く正しいと思わされた。三時間の間に話題に上がった内容は実に多岐にわたり、それらの全てが現在進行形で自分が考えていることであり、大きな励ましを受け、感化されるものがあったのは疑うことができない。
そこで交わされた一つ一つの話について、今ここで断片的に取り上げるのではなく、自分の中での咀嚼が必要であり、今後また折を見て書き留めておきたいと思う。 三時間の会話の後、今日私が音楽院を訪れた目的である、その方がルーマニアで演奏する曲を聴かせてもらった。その曲は、ロシアの作曲家セルゲイ・ボルトキエヴィチの『ピアノ協奏曲 第3番《苦難を通って栄光へ》』だった。
私は今日初めて、ボルトキエヴィチというロシアの作曲家を知ったのだが、その方の説明曰く、ラフマニノフと同時代の作曲家であり、二つの世界大戦を経験している音楽家である。この曲のタイトルには、そんなボルトキエヴィチの人生が滲み出しているような気がしてならない。
この曲は、協奏曲(コンチェルト)であるから、実際にはオーケストラと共に演奏されるものであるらしく、今日はピアノの部分だけを取り出して演奏をしてもらった。演奏の前の談話の中で、「ロシア的なもの」について話し合っており、その曲にはまさにロシア的なものが体現されているとのことであった。
実際にその曲を聴いてみると、音楽の素人である私にも、確かにロシア的なものの一端を感じ取ることができたのだ。それは今朝聞いたドビュッシーのようなフランス的なものとはまた異なる甘美さが漂っているように思えた。
甘美というよりも、おそらくそれは、私たちを内側から深く捉えながら、鷲掴みにしたままに感動を誘うような美しさを持っているように思えた、と表現した方がいいだろう。今の私にはそのようなことしか言えない。
この曲を含め、ロシア的なものというのが真に自分にわかるようになるまで、私は自分なりの方法と進み方で探究を継続させていきたいと思う。
その方との今日の会話を通じて、ロシア的なもの、フランス的なもの、ドイツ的なもの、日本的なもの、普遍的なものというテーマについて、考えを深めていくきっかけを掴めたような気がするのだ。2017/2/18