今学期は二つのクラスしか履修していないのだが、もう一つ関心のあるクラスを聴講し、さらには研究の方を進めていく必要があったためか、履修している二つのクラスの振り返りが追いついていない。
相変わらず、日々の生活の中の全ての出来事が、私にとってとても貴重なものに映り、そこでの体験を振り返っておきたいという思いに駆り立てる。本当に、毎日の体験一つ一つが、時に輝かしく、時に苦々しく、諸々の情感を含んだものとして私の内側を通過していくのを感じている。
刻まれる時の流れを自分の内側に刻印するかのように、私は、日々の一つ一つの体験をできるだけ自分の内側に刻印しておきたいのである。体験という儚く過ぎ去るものを、一つ一つの杭として自分の内側にを打ち込むことによって、一つ一つの経験への足がかりとしたいのだ。
今の私は、これを行わなければ、一歩も前に進めないような気がしているし、これをしなければ、自分の生を根幹から生きていないような気がするのだ。だから私は、毎日の一つ一つの浮雲のような体験を、仮にそれを完全に掴むことができなかったとしても、何としても自分の内側に、自分の人生においてそのような体験があったのだということを刻み込んでおきたいのだ。
今日は早朝に、「創造性と組織のイノベーション」と「複雑性とタレントディベロップメント」というコースの振り返りを少しばかり行っていた。湯水のように書き留めておきたいことが溢れ出す。
溢れ出す内容を下手にまとめようとするのではなく、自分を捉えて離さないテーマが、文章の流れに応じて自然と一つのまとまりになるように言葉を紡いでいくことが大切だ。現在執筆中の学術論文のように、自分の頭の中で最初にこしらえた枠組みに当てはめるのではなく、とにかく書き留めておかなければならないという事柄が、必然的な形として自然に姿を表すまで言葉を紡ぎ出していくのである。
そこでは、私という存在は、思念や情感が一つの必然的な形に変化していく運動を見守る役割に徹する必要があるのだ。その運動が収束に向かえば、収束を助け、新たな展開を試みようとしているのなら、その展開を支えるだけである。
そのように紡ぎ出された言葉には、独特の躍動感が宿るような気がしてならない。書き留めておきたいと思う事柄が、そのような躍動感を持つ時、その事柄は初めて私の経験として内側に書き留められることになるのだと思う。 早朝の振り返りが落ち着きを見せた頃、少しばかり違う仕事に取りかかった。先日、書籍の要約サイトであるflier(フライヤー)さんからインタビューの依頼を受け、実際に数週間前にインタビューを受けさせていただいた。
こうしたインタビューの機会は非常に有り難く、いつもインタビューを受けた後に、話し言葉を活用することの意義を実感するのだ。話し言葉の中で表出される一つ一つの文章をワードなりに書き出すと、目を当てられないほどの曖昧模糊とした意味と外形を持っていることがわかる。
だが、そうした曖昧さを脇に退けることができるほど、話し言葉というのは不思議な力を持っているように思う。そこには、書き言葉と違った何かが吹き込まれているのである。
以前、私が幼少時代に、父に日記を読んでもらうことを通じて、書き言葉の不思議さに触れた体験について書き留めたおいたように思う。書き言葉が内包する不思議な力と同様に、話し言葉にも固有の力が内包されているのだ。
私は日本語の書き言葉にせよ話し言葉にせよ、自分が真に伝えたいことを真に伝わるような形で表現できるようにしたいといつも思う。それを実現させるためには、書き言葉と話し言葉の双方を磨き続ける鍛錬を継続させていかなければならないのだ。
人間の発達について学べ学ぶほど、言語や言葉が、一人の人間の中で絶えず深化と進化を続けていくことが不思議でたまらない。同時に、自分の言葉の未熟さをなんとかしたいと常に思っているのも確かだ。
自分が真に伝えたいことを真に伝えられるようになる日がいつになったらやってくるのだろうか。その日が見えなくても、その日がやってくるまで、私は絶えず自分の言葉と真摯に向き合い続けたいと思う。2017/2/17