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743. あの夏、デカルト通り39番地で


私はあの時パリにいた。セーヌ川左岸に位置する5区と6区にまたがるカルチェ・ラタン界隈を私は歩いていた。それは昨年の夏の出来事である。

カルチェ・ラタンは学生街としても有名な場所であり、フランスを代表する大学がこの地区に幾つも点在している。あの夏私がパリを訪れたのは、世界を代表するこの街を堪能することではなく、デカルト通り39番地に行きたいという理由だけであった。

デカルト通り39番地は、かつて辻邦生先生が住んでいた場所であり、フランス印象派の詩人ポール・ヴェルレーヌが住んでいたことでも有名な場所である。あの時の私はおそらく、芸術の世界や学術の世界を問わず、内側の思念や情動をこの世界に何らかの形として創出することについて煮え切らないものを抱えていた。

そうしたものを乗り越えるために、何か突破口となるものが掴めるのではないか、という淡い期待を胸に抱きながら、私はデカルト通り39番地に逢着したのだと思う。

狭い路地を通り、目的の場所に到着すると、私は少々戸惑った。この場所について事前に調べていた時に、ヴェルレーヌと辻先生が住んでいたというプレートが掲げられているという話を聞いていたが、それを見つけるのが少々大変だったのだ。

大きな目印として、ポール・ヴェルレーヌの名前を取ったレストラン「ヴェルレーヌ」を発見し、目を凝らしてその上の階を見てみると、確かにヴェルレーヌがこの場所に住んでいたことを示すプレートを見つけることができた。

それと同時に、隣接する左の部屋に目をやると、辻先生がこの場所に住んでいたことを示すプレートを見つけることができたのだ。二人のプレートを見つけた時、純粋に嬉しさのようなものがこみ上げてきたのと同時に、失望感のようなものがよぎったのも確かである。

なぜなら、お世辞にも綺麗とは言えない狭い路地と窮屈さを醸し出す場所を中心に、あの二人がパリでの生活を形作っていたというのがどうも信じられなかったからだ。このような場所で果たして落ち着いて思索活動に耽り、創作活動に打ち込むことができるのだろうか、という疑問が絶えず私の頭の中を駆け巡っていたのである。

だが、そうした思いは徐々に自分の中から消えていった。その代わりに、この場所には創作活動に二人を牽引した何かが眠っているに違いないという思いが表れてきたのである。そのような思いを持って改めて二人のプレートを眺めていると、そういえば作家のアーネスト・ヘミングウェイもこの辺りに住んでいるという話をふと思い出したのだ。

それによって、私はこの場所には、彼らを惹きつけてやまなかったものがあり、創作活動を導く何かが存在していたのだと思うようになった。残念ながらその時の私には、そうした存在を掴むことはできなかったが、創作活動に励むことを促してくれる最適な場所というのが各人それぞれあるのだという考えに至った。

辻先生、ヴェルレーヌ、ヘミングウェイにとっては、このカルチェ・ラタン界隈だったに違いない。そして私は、晩年のデカルトのように、オランダという土地が自分にとってそのような場所であることを今ひしひしと感じている。

今私が生活を営んでいる場所には、創作活動に私を静かに駆り立てる何かが宿っているのだと思うのだ。それと寄り添いながら、そして、それに支えられながら、今日も自分の仕事に励みたい。

あの夏のパリでの想い出は、今も私を根底から静かに激しく駆り立てる。2017/2/14

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