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740. 丸の本質から死の本質へ


清らかな太陽が昇る朝。暖かな太陽光が優しく差し込む昼。静かな闇に包まれた夜。そのような日曜日だった。

今日は午前中に、産業組織心理学の論文を四本ほど読んでいた。それらの論文はどれも、「創造性と組織のイノベーション」というコースで課題にあがっているものである。

このコースを担当するエリク・リーツシェル教授の論文選択は非常に巧みであり、各クラスのトピックを多角的かつ重層的に理解することを促すような文献構成になっている。

つまり、ある一つの論文を読み、次の論文に移ってみると、一見したところ相矛盾するような主張や実証結果が紹介されており、丹念に両者の論文を読まなければ、両者は単純に異なる主張や実証結果を紹介しているにすぎないという読みで終わってしまうのだ。

それらの文献を読むときに要求されているのは、それらの主張の前提を把握することや、実証研究のデータの種類や性質を適切に掴むことだろう。そのような点に配慮しながら、課題となっている論文を読み進めていた。 それらの論文を読了した後に、昨日に引き続き、研究論文の執筆に取り掛かり始めた。昼食までの時間、そして昼食後から夕方にかけて、合計五時間以上の時間を費やして執筆作業に取り組んでいた。

しかしながら、気づいてみると、五時間以上の時間をかけたにもかかわらず、形となったのは500字程度の文章だけであった。第二弾の書籍を執筆した時を振り返ってみると、このくらいの時間があれば、15,000字から20,000字ほどの文章が形となっていたように思う。

これは単純に英語と日本語で文章を書くという相違ではなく、やはり学術論文を執筆することと書籍を執筆することの間に埋めがたい違いがあることに気づく。今日執筆していた論文の箇所は、理論的な説明を施す箇所であり、先行研究を調査しながら入念に論理を組み立てていく必要があった。

そうした都合上、文章を実際に書くというよりも、先行研究の文献を再度読み込む必要があり、文章の構成と論理の構築にそもそも時間がかかっていたと言える。その結果として、本日の成果物だけを見れば、わずか500字足らずの文章が形となっただけだったのだ。

不思議なことに、わずか500字しか形になっていないのだが、随分と思考を迫られたように思う。やはり学術論文を執筆するというのは、慎重に言葉を選び、そしてそれらの言葉を緻密に組み立てていく行為なのだと思う。もちろん、これらは書籍の執筆においても当てはまることだが、そこに傾けられる精神エネルギーの度合いが随分と異なることに気づく。

単純な比較はできないが、作曲家が一つの楽曲を創出するかのような、あるいは、画家が一つの絵画作品を創出するかのような、対象との真剣な向き合いがそこに立ち現れている気がしてならない。少なくとも、私はそのように学術論文という作品の制作を捉えている。

どのような分野においても、対象と真剣に向き合うことによって初めて磨かれるものがあるのだと思う。愛好家感覚で対象と触れることでは得られないものが、真摯さで満たされた行為に宿るのだと思わずにはいられない。精魂を傾けて対象と向き合うというのは、本当に大事なのだと思う。 論文の執筆がひと段落したところで、書斎の窓からふと外を眺めた。今日という一日を締めくくるために、太陽が最後の輝きを振り絞っているような姿が見えた。

私は書斎の椅子から立ち上がり、窓の方へ近寄った。そこで見えた太陽は、丸という形のイデアを象徴するかのような姿を見せていた。

私は生まれて初めて、「丸」というものを真の意味で知ったように思う。それぐらい、その太陽は丸の本質を顕現させていた。 そういえば、ここ最近の私はあまり外の景色を意識的に眺めることを行っていなかったとふと思った。太陽が完全に沈む頃、一つの考えが私の脳裏をよぎった。

今私が行っている人間の知性や能力の発達研究を突き詰めると、それは死に向かう人間の探究であることに他ならないということであった。

人間の発達プロセスとは、死に向かうプロセスに他ならず、私たち人間にとって、発達という現象は不可避なものに違いないのだが、それだけを見つめていると、もう一つの不可避な現象を見落とすことになってしまう。

まさにそれが死という現象である。これまで言葉にならずにいたのだが、結局のところ、自分の探究テーマは、死へのプロセスの探究と同一のものなのだと思う。

死という現象を影の現象としてみなす一般的な考えを押し払い、そして、光の現象として安易に捉えようとする誘惑を払いのけ、死という現象の本質を自分なりに掴んでいきたいと思うのだ。2017/2/12

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