一昨日、昨日はともに、音楽の流れに乗っていたという感覚がある。それは音楽の旋律や律動に乗っていたということではない。
作曲家がその楽曲を作った根元にある生成の波に乗ったということである。どうも私には、何かを絶えず創造し続けることができた者たちの共通事項として、こうした生成の波を掴めたか否かが鍵を握るような気がしてならない。
これは創造性の枯渇という現象と密接に関係している問題だと思う。これまで類まれな創造性を発揮していた人物が、ある時突如として創造性を発揮できなくなってしまうことがある。
その原因の最大のものは、そうした生成の波に乗り損ねたか、その流れから滑り落ちたかなのではないかと思うのだ。生成の波からの転落を引き起こす要因は、様々なものが考えられると思われるが、とにかく創造を司る生成の波をひとたび掴み損ねてしまうと、それは創造性の枯渇を生むような気がしてならない。
これまでは毎日の仕事の中で、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ショパン、ロベルト・シューマン、クララ・シューマンのピアノ曲を一日中聴いていた。私はどうも、ピアノという楽器が奏でる音に魅せられる傾向にあり、交響曲のように多様な楽器が鳴り響くものは、種類の異なる音が多いため、思考が幾分混乱しやすく、仕事をする際には適していないと思っている。
日々の仕事の中で、ピアノというただ一つの楽器が奏でる音がそこにありさえすれば、それ以上望むものはないというような思いがある。一昨日からは、それらの作曲家以外のピアノ曲を聴くようになった。
具体的には、ヘンデル、ハイドン、リスト、ワーグナー、メンデルスゾーン、ブラームス、チャイコフスキー、ドビュッシー、サティ、スクリャービン、ラフマニノフ、ラヴェルが残したピアノ曲を文字通り一日中聴いている。
こうした作曲家の中には、私の不勉強もあり、ピアノ曲を残しているとは知らなかった者もいれば、やはり全く聴いたことのなかったピアノ曲がある。このような膨大な量のピアノ曲とともに仕事を進めることによって、一昨日と昨日は、それらの楽曲の根元にある生成の波に乗っているような感覚がしたのだ。
そのような感覚からふと、2016年の年末に開催したオンラインゼミナールで取り上げた論点について思い出した。それは、創造性の四段階モデルである。
創造性というのは何も、モーツァルトやアインシュタインのような、幾世代にもわたって名前が残るような偉大な人物たちが発揮できたものだけを指すのではない。実際には、そうした創造性は四段階モデルの最後の段階(Big-C)に属するものであり、実際には、その段階に至るまでに三つの創造性の段階があるのだ。
それらは順番に、mini-c、little-c、pro-cと呼ばれるものであり、ここではそれらの特徴についての説明を省略するが、それらのプロセスを辿る過程の中で、各人固有の生成の波を掴むように尽力することが重要に思える。
興味深いことに、生成の波は各人固有のものでありながらも、波の根元は共通の一つの流れのようなのだ。私たち固有の生成の波とさらにその根元にある一つの流れとつながることができれば、一生涯にわたって自分の内側から湧き出るものを形として創造していくことができるように思われる。
そのためにも、絶えずその流れを掴むことを意識しながら日々の仕事に取り組みたいと思う。重要なのは、今の仕事の結果ではなく、創造を司る生成の波を掴む道を歩いているかどうかだ。2017/2/12