一昨日、ベートーヴェンのピアノソナタ第26番『告別』を聴いていると、感涙が静かに目に滲み始めた。ここしばらく、その日の仕事がひと段落すると、欧米の大学院が提供するMOOCを視聴している。
現在は、米国フィラデルフィアにあるカーティス音楽院が提供するオンラインコースを趣味の一環として受講している。このコースは、ベートーヴェンのピアノソナタに関する理解を深めていくことを趣旨にしたものである。
このコースを通じて、『告別』という曲の構成的な意味を初めて知った。三つの楽章からなるこの曲は、それぞれの楽章に副題が付けられている。
それは順番に、「告別」「不在」「再会」である。実は以前から、この曲を何度も聴いていたのだが、一昨日はいつもとは違う感覚を得たため、その感覚がもたらされた理由について少しばかり思いを馳せていた。
それは一つに、鑑賞者側の態度が重要であるように思う。これまでの私は、仕事の最中にこの曲が生み出す音を浴びていたにすぎない。
しかし、一昨日は、仕事の手を完全に止め、椅子に深く腰掛けながら、この曲と真剣に向き合ってみることにしたのだ。
書斎の窓の外には、完全に日が暮れた闇夜が広がっていた。薄明かりの灯った書斎の中で、そうした外界の闇をぼんやりと眺めながらこの曲にじっくりと耳を傾けていたのである。
すると、感涙を引き起こすような感覚が私に襲いかかってきたのである。芸術全般に言えることかもしれないが、やはり対象と真摯に向き合うという姿勢がなければ、その作品は私たちに何も語りかけてくることはなく、同時に、私たちはその作品から何も汲み取ることができないのではないか、と思わされる出来事であった。
さらにこれは芸術全般を超えて、他の物事にも拡張適用されるような気がしている。私の場合、研究や実務の中で出会う書物や人と真摯に向き合わなければならない、と改めて肝に銘じさせられたのだ。
また、感涙を催す感覚がもたらされた二つの目の理由は、単純に楽曲に対する理解の深まりだと思う。つまり、その曲の背景にある知識を獲得することによって、これまで見えなかったものや感じられなかったものを掴まえることができるようになったのだと思う。
私にとって芸術鑑賞が一筋縄ではいかないのは、感覚を磨き、真剣な態度を持っているだけでは、作品からの語りかけに気づけないことが多々あるということである。作品からより深いものを汲み取るためには、自身の感覚を成熟させていき、その作品と真摯に向き合おうとする態度のみならず、その作品を取り巻く知識が不可欠なように思える。
事実、カーティス音楽院が提供するオンラインコースを受講することによって、この曲を構成する三つの楽章に関する知識を少しばかり獲得することができただけでも、随分と視界が開けたような気がしたのだ。
知識によって視界が開けたかと思うと、それはこの曲に対する自分の感覚までも開いてくれたのである。鑑賞者の内面の成熟、態度、知識という三つの要素は、それぞれ独立していながらも相互依存的な関係にある。
これらの三つの要素をそれぞれ深め、それらが相互に影響を与え合った時、一つの作品は非常に多くのことを私たちに語りかけてくれるような気がするのだ。そして、そこから私たちは、生きる実感にも似た情感を作品から享受することができるのではないだろうか。2017/2/6