今朝方、いつものようにオランダ語の学習を行っていると、また少しばかり小さな壁を破ったような感覚があった。
私の中で、オランダ語の語彙を積極的に増やそうという意識はそれほどないため、獲得した語彙に関しては未だにそれほど多くないが、オランダ語の音に徐々に慣れ始めていることに気づいたのだ。
このようにオランダ語の音への慣れを生み出したのは、毎朝、オランダ語のリスニングとシャドーイングを続けてきたおかげかもしれない。最も入門的なテキストを何度も繰り返しているうちに、ごくわずかずつ聞き取れる音が増え、理解できる内容が増加しているのを感じる。
実際に、昨日も歯医者に行ったのだが、そこで受付の人と患者がオランダ語でやり取りをしている内容の趣旨がだいたいわかったのである。ここから少し考えていたのは、「オランダ語を理解する」ということに関して、ある言語を理解するというのは、どうやら語彙や音の問題だけではない気がしたのだ。
というのも、そもそも言語とは常に文化に埋め込まれたものであり、文化的な理解がなければ、真にその言語を理解することは難しい。実際にオランダで生活をすることを通じて、知らず知らず、自分の中にオランダの文化が流入していたようなのだ。
オランダ文化が私の内面世界へ流入することによって、オランダ語の理解が進行しているのではないかと思ったのだ。ここから言えるのは、やはりある特定の言語を理解するというのは、語彙や音を学習していてもほとんど意味はない、ということだろう。
つまり、ある特定の言語を理解する際に鍵を握るのは、その言語が立脚する文化の奥に徐々に入り込んでいくことであり、語彙と音を文化に根ざされた文脈とセットで理解していくことが重要だと思うのだ。
意味というものが常に文脈に織り込まれたものであるため、具体的な文脈の中で語彙や音を理解していくことはとりわけ重要だろう。歯医者の待合室でそのようなことを考えていた。
オランダ語に関して、牛歩の進歩を実感しているのは確かだが、いかんせん日本語に関しては進歩がそれほど感じられない。昨夜、就寝前に、書斎の本棚を一瞥したところ、辻邦生先生が二度目のパリ生活を始められた時の日記が収められた書籍に目が止まった。
自然とその書籍に手が伸びていき、何気なくその日記のページをめくっていた。確かに、辻先生は小説家として書くことを本業としており、文章に関する修練を長きにわたって続けておられた方である。
だが、そうは言っても、彼が表現する日本語と自分が表現する日本語の間には、これほどまでの溝があるのか、と思わずにはいられなかったのだ。辻先生の文章を読みながら、改めて自分の日本語の未熟さを痛感させられ、それは同時に、自分の内面世界の未熟さを示唆するものであった。
日本語で自分の思考・感情・感覚を表現することに関して、単純に日本語の技巧を磨けばいいかというと、全くもってそうではないと思うのだ。それらのものを日本語で納得のいく形で表現していくためには、やはり言葉を生み出す主体そのものの成熟が不可欠だと思う。2017/2/2