夜、感涙にむせびそうになった。書見台に乗せられた一冊の書物を読みながら、書見台がここにあるということ、そしてその書物があるということ、そこから自分が今ここにあるのだということを考えた時、抑えがたい感情が一挙に吹き上げてきたのだ。
本来、その書見台も書物も、そして私の存在すらもこの世界に無かったはずのものたちである。だが、それらが今疑いようもなく、確かにこの世界にあるのだ。
仮に奇跡というものが、無いはずのものがそこに存在するということを意味するのであれば、目の前の書見台がそこにあるということも、一冊の書物がその上に置かれているということも、そして、私がここに存在しているということも、奇跡に他ならないのでは無いだろうか。
そう考えると、今の私の視界に入る全てのものが、この世界には元々無かったはずのものであり、それが確かに今自分の目の前にあるということがとても奇跡的なことのように思えた。
書斎に鳴り響くモーツァルトのピアノ曲も、机に置かれた眼鏡ケースも、携帯電話も、夜道を照らす街灯も、レンガ造りの家々も、葉っぱのない冬の木々も、月も、それら一切がただあるということがどれほど奇跡的なことなのだろうか。
なぜ、自分はこのことにこれまで気づかなかったのだろうか。それがただあるということだけで、それが奇跡的なことだということに。 今日も自分はこの世界にあることができたのだということを知った時、それだけで心が一杯に満たされた。そのような気持ちの中、私は、奇跡というものは、一切存在しないのだと思った。
奇跡が存在しないほどに、この世界は奇跡で満ち溢れているのだ。「あること」というこの極ありふれた事態は、日常の私たちの感覚では捉えにくいものであるがゆえに、奇跡と呼ばれる現象が存在しているかのように私たちは錯覚してしまうのだろう。
私たちはここで立ち止まり、自分の目を見開く必要があるのではないだろうか。自分の目を真に見開いた時、あるということに満たされ尽くしたこの世界に無数の奇跡を見出し、小さな自己にしがみ付いて何かを獲得することに奔走することが、非常に馬鹿げたものに思えてくるだろう。
「あること」を絶えず感じながら毎日を生きることは、とても尊いものであり、それはより深く善く生きることにつながるものだと思うのだ。2017/1/28